紀伊家鷹場

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拳場と称された将軍家鷹場の設定に続き、享保二年(一七一七)六月、かつてのように拳場の外側およそ五里以内に、御三家その他に鷹場が与えられた。このうち紀伊家鷹場は、武蔵国足立郡のうち、大宮領・浦和領をはじめ一三ヵ領の旧鷹場が復活されたほか、埼玉郡駒崎村ほか一五ヵ村が新たに紀伊家鷹場に組入れられた。当地域で紀伊家鷹場に編入された村々は、谷中・四町野・瓦曾根・越巻・登戸・蒲生・大間野・七左衛門の各村であり、このほか神明下・西方・伊原・西新井・越ヶ谷の各町村の一部が入り組み編入され、紀伊家鷹場は総数二一〇ヵ町村の地域に及んだ。

 紀伊家鷹場の鳥見役も、かつての鳥見であった会田氏、八木橋氏、星野氏らが再任された。すなわち会田平左衛門・八木橋七兵衛・小沢三郎兵衛・星野権兵衛・林八郎右衛門・蓮見万之助・松本万右衛門・北沢甚之丞の、在地有力農民八名がこのとき任命されている。このうち当地域の紀伊家鷹場村々を管掌した鳥見は、大門宿会田平左衛門(本陣)であり、会田氏の管掌区域は、足立郡南部領・見沼領・埼玉郡越ヶ谷領・八条領・岩槻領のうち二五ヵ村であった。紀伊家鷹場の鳥見も、苗字帯刀を許され、公儀鳥見に準じた権限と職域をもって紀伊家鷹場の管理にあたった。

大門宿本陣の会田家