捉飼場

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拳場の外側に御三家等の鷹場が与えられたが、このほか鷹匠が鷹の調練に使用するため、〝御鷹捉飼場〟という鷹匠頭支配の鷹場が設定された。この捉飼場は、宮内庁版『放鷹』によれば、〝取飼野〟とも称され、千駄木と雑司ヶ谷の両組で、五〇万余石の地域にわたっている。このうち武蔵国足立郡・大里郡から上野国境までの地域二四万石が雑司ヶ谷組の捉飼場であり、武蔵国川越領ならびに常陸国一帯が千駄木組の捉飼場にあてられていたという。

 当地域の史料によると、埼玉郡・足立郡・葛飾郡のうち騎西領・幸手領はじめ武蔵・下総両国にわたる一一ヵ領二八四ヵ村、高一四万石余が鷹匠頭戸田五介支配の捉飼場に指定されている。したがって、全捉飼場が高五〇余万石だとするとおそらく、高十三、四万石単位で四組に分けられていたようであり、このうち雑司ヶ谷と千駄木が各二組づつを受持っていたと考えられる。すなわち文政元年(一八一八)九月の野廻り世役話不法出入り訴訟済口書(越谷市史(三)七一九頁)によると、当時当地域の戸田五介捉飼場の野廻りは八名であり、全捉飼場で二七名の野廻りが置かれていた。一つの捉飼場に六名から八名の野廻りが置かれていたとすると、一人あたり高二万石を受持っていたことになり、ほぼこの数は高五〇余万石に適合する。

 いずれにせよ当地域では、八条領地域の拳場村々と、七左衛門・大間野など紀伊家鷹場を除いては、大沢・越ヶ谷両町をはじめ、増林地区・新方地区・荻島地区・大袋地区・桜井地区の村々大部分が戸田五介支配の捉飼場地域に含まれていた。この捉飼場には、鷹匠らが必要に応じて廻村し、鷹の巣を捜したり鷹を放って野鳥を捕える調練をしたので、鷹匠一行の往来が頻繁であった。

荻島地区の沼沢地