この捉飼場にも鷹匠頭支配の〝郷御鳥見〟が配置された。郷鳥見の名称は、その後享保三年(一七一八)七月、若年寄大久保佐渡守の通達によって〝野廻り〟と改められている。野廻りも、紀州鷹場鳥見役と同じく、在地農民のなかの有力者から選ばれ、苗字帯刀を許され、二人扶持を与えられた。野廻りの定数はつまびらかではないが、前記戸田五介支配の当地域捉飼場では文政元年当時は八名であり、捉飼場全域では二七名であった。なお宝暦十一年(一七六一)当時の戸田五介捉飼場の野廻りには、駒崎村の岩崎浅右衛門、白岡村の細井半内、原村の中村藤四郎、高虫村の石井喜太夫、松伏村の石川左仲、そのほか斎藤与市、増田武助、山口新左衛門の名がみられる(越谷市史(三)七一一頁)。野廻りは世襲した家もあるが、しばしば交代することがあったようである。当地域で野廻りを勤めた家は、増林村の榎本熊蔵、西新井村の新井栄次、小林村の会田佐源次などの名もみられる。
野廻りの職掌内容は、公儀鳥見に準じたものであり、主に鷹場内密猟者の監視や鷹場の整備にあたったが、昼夜の別なく受持区域を巡廻していたので、自宅に居るときは少なかったようである。文化~文政年間(一八〇四~三〇)に、戸田五介捉飼場の野廻りを勤めた西新井村の新井家文書によると、野廻り新井栄次の廻村先は、越ヶ谷・粕壁・杉戸・幸手・岩槻の各領に及んでおり、自宅を留守にすることが多いので、急用の書状はそれぞれの宿場問屋中に問合せてもらいたいという廻状の雛形を用意していたほどである。
このように、自宅に居るひまもなく昼夜村々を巡廻した野廻りは、具体的にはどのような任務をもっていたのであろうか。同じく新井家文書によると、刈入れのすんだ稲架を片付けず、そのまま田に放置していた大沢町と大房村は、野廻りからきびしくこれを咎められ、早速稲架を取払うよう文書をもって通告されている。また大林村の耕地で野鳥を捕えるためのもち縄が野廻りに発見され、その耕地の所有者は、もち縄の仕掛人が誰であるか調査を進める間、番人をつけて村預けの処分に付されている。
このほか、鷹場法度違反の容疑者の摘発には、おとりの策略を講じてその証拠をつかむことも行なわれた。榎本家文書「御鷹御用書留帳」によると、明和三年(一七六六)、幸手宿の魚屋次郎右衛門が、水鳥の売買を行なっていることを察知した野廻りは、野廻り一同評議のうえ、水鳥売買の証拠をつかむため、おとりを使うことにきめた。おとりになった一人の野廻りが客をよそおい、さりげなく真雁一羽を銅銭三七二文で買いとったので、その場で水鳥商売の証拠をつかんだ。野廻りはこの始末を鷹匠頭に届けたところ、鷹匠頭は捉飼場内で水鳥商売をする者は、かならず指定された水鳥問屋から仕入れ、無印(無許可)の鳥を売買してはならない。ただし捉飼場の外から自分用に無印の鳥を少々買うのはよいが、他人から頼まれてこれを取次いだりすることはいけないという趣旨の廻文を野廻りに達した。この結果、幸手宿魚屋次郎右衛門の水鳥売買一件がどのように処置されたかは、史料的に明らかにし得ないが、鷹場内での野鳥売買は、きびしい制約をうけていたことが知れる。
また明和四年四月、下大崎村の百姓源八が水鳥を捕えて殺したが、これが発覚し、野廻り岩崎浅右衛門から鷹匠頭に訴えられた。このときは、訴えをうけた鷹匠頭は地頭所(下大崎村支配の旗本役所)役人を召喚し、地頭に源八の身柄を一任した。地頭役所では源八の家屋敷を取こわして罪のつぐないをさせ、これを内済にすませている。
また七左衛門井出家文書によると、元治元年(一八六四)六月、紀伊家鷹場の谷中村百姓増蔵ほか三名が、つねづね野鳥を常食にしているとの噂が流れ、紀伊家鳥見の会田平左衛門によって逮捕された。増蔵らの身柄は一件の取調べ中、七左衛門村名主門平宅に縄付のまま番人をつけて預けられた。七左衛門と大間野の両村役人は、鳥見会田平左衛門に白洲の吟味(起訴)を猶予するよう慈悲願いを出すとともに、増蔵らも、白鷺の落鳥を拾ったが数日放置していたので臭気がひどく、そのため土中に埋めたもので鳥を捕えて殺したものでないと弁解の嘆願をくりかえした。増蔵らの取調べが進むにつれ、かつて落鳥を食用したことなどが露顕したが、村役人らは今後十分取締りを強化するので、起訴を見合せてほしいと嘆願を続けた。増蔵らの処分は不明であるが、おそらく鳥殺生の証拠がないうえ、村役人らの強い嘆願で一件は不起訴になったものとみられる。
野廻りや鳥見は、このように鷹場法度の違反者の摘発や探索など、警察的業務をになって村々を巡廻したので、村びとから常に畏怖された存在であり、かれらの多少の無理難題も黙認された。幕府でも、野廻りに行過ぎた行為が多いのを知り、しばしば触書などでこれをいましめた。たとえば、宝暦七年(一七五七)八月の触には、「野廻りの儀、只今迄も役儀をかさにつかまつらず、百姓に対しむずかしき義申しかけざる筈に候、野廻り共の内、端々にては猥なる義もこれあり候風聞に候」とあり、さらに「野廻り役の義は、鳥殺生つかまつる者を改め候ばかりにて、外に百姓共へ対し何にても一切申付まじき事」という文面がみられる。
しかし野廻りらのうちには、その後も行過ぎた行為をする者があとを絶たなかったらしく、目に余る野廻りの横暴を奉行所に訴える者もあらわれた。一例をあげると、文政元年(一八一八)、戸田五介捉飼場の野廻り世話役、武州葛飾郡藤塚村遠藤園次郎が、埼玉郡大場村名主一老ほか一名から、勘定奉行榊原主計頭役所に訴えられた一件がある。出訴の主な理由は、
(1)鷹匠が御鷹御用で廻村の際、関係地域でもない野廻りの者までが、鷹匠に多勢付添い、無賃の人足や旅宿賄いを村々に負担させるので、村々が難儀である。
(2)御鷹御用役人らの旅宿を農家に宿割りする際、不公平な取扱いが多い。
(3)野廻りに随行してくる下見役は、本来野廻りが病気などで廻村できないときにその代りを勤める者であるが、近頃は常に下見を召連れている。したがって無賃人足や旅宿賄いも下見役の分まで余分に負担がかかり、これまた村々の難儀になっている。以来野廻りの下見は廃止してもらいたい。
(4)一件が訴訟になったとき、遠藤園次郎は訴訟人の一人、大口村名主茂左衛門に金三〇両を贈り、訴訟方からこれを離反させた疑いがある。
という点にあった。結局同年九月、仲裁人が調停して内済(示談)となったが、遠藤園次郎の野廻り役退役が内済の条件であった(越谷市史(三)七一九頁)。
このように、村びとからとかく批難の対象とされた野廻りにも、かれらなりの言分があり、その立場上、数々の不平不満があった。安永七年(一七七八)七月、捉飼場野廻り二七名が連署をもって鷹匠頭戸田五介と内山七兵衛宛に訴願を行なった。この訴願の内容はつぎのごとくである。
川越筋担当の野廻り鈴木友七が、野田見廻中密猟人四、五名の集団に襲われ、殺害された一件がある。一件吟味にあたった奉行所では、野廻りは帯刀を許された身分なのに、脇差で密猟人と斬り合ったのは不埒であると指摘した。これに対し参考人として召喚されていた野廻りは、野廻りの役は山野を駈廻って鷹場を監視するので、身軽な服装を必要とする。重い大刀小刀を腰に差しては山野を自由に駈廻ることができないので、常に脇差を腰にして巡廻している。また、密猟人を発見しても一人では犯人を追跡するのが精一ぱいで、村びとの応援を頼みに行くこともできない。したがって鈴木友七の例でもわかるように、単身の見廻りは危険であり、供の随行が必要である。そのためには弁当代も嵩んで難儀であるので、ご扶持の増額も配慮してほしい。さらに〝野廻り〟という名称は、農作物の見廻り人と紛らわしいので、元の通り〝郷鳥見〟の役名に戻してほしいとある。
訴願の内容は以上のごとくであり、野廻り単身の見廻りは危険であるので、供の随行を許し給金をあげること、また野廻りの名称は田畑の見廻り人と紛らわしいので、もとのごとく〝郷鳥見〟の役名に戻すことを願っていた(越谷市史(三)七一一頁)。
このほか西新井新井家文書によると、奉行所で密猟人らの吟味の際、一件の参考人として野廻りが奉行所に呼ばれるときがある。この際野廻りは罪人と同じく砂利の上に着坐させられる。幕府の御用馬を扱かう牧士の者は、野廻りと同じく農民身分であっても、白洲に呼ばれたときは縁側に着座を許される例であると聞いている。野廻りでも参考人として奉行所から呼ばれたときは、白洲の縁側に着座することを許してほしいと訴えている。これらの事例により、身分的に恵まれなかった野廻りの立場の一端をうかがうことができよう。