鷹場には将軍家鷹場の拳場、徳川御三家等の各鷹場、鷹匠頭支配の捉飼場とそれぞれ領域が定められ、その境界には榜示杭が打たれて管轄地域が明示されていた。この境界を無視して管轄外の者が狩猟することは違法とされ、公儀鷹匠であっても拳場内の放鷹は〝御鷹場法度手形〟に示されているように、公儀鳥見の案内なしでは鷹をつかうことは禁止されていた。ただし境界の入会地等で、獲物が境界を越えて落鳥した場合には、先方の承諾を得て獲物を取りに行くことは許されている。幕府でも境界入会地の越境獲物に関しては、なるべく紛争をおこさないよう注意の通達をだしていた(「会田落穂集」)。
文化十三年(一八一六)三月、戸田五介組の鷹匠一行が、拳場である西方村下手耕地を通行の際、蓮田に遊んでいた黒鶴を鷹をつかって捕えた。これを知った西方村役人は鷹匠一行を追いかけたが、元荒川の堤防上でこれに追いつき場所違いの放鷹を指摘したうえ、捕えた鶴を西方村へ預けるよう交渉した。このとき、西方村の対岸小林村の捉飼場元野廻り佐源次がこれを聞いてかけつけ、仲に入って調停をこころみた。しかし鷹匠方では西方村の申し入れにひどく立腹し、示談はまとまらなかった。西方村では急遽この始末を亀有村在宅の葛西筋公儀鳥見小堀兵次に出訴した。小堀兵次は早速登城して一件の始末を鷹匠頭戸田五介に報告し善後策を協議した。戸田五介は、配下の鷹匠を西方村に派遣し、実地見分とともに西方村との折衝にあたらせた。一方、小堀兵次は西方村役人を呼んで話し合ったがその結果、元野廻り佐源次の詫状と、鷹匠の取締り一札を西方村に入れることで、内済とすることになった。
この西方村役人宛の元野廻り佐源次の詫状の内容は、捉飼場区域の小林村境いで鷹をつかったところ、鶴を捕えた鷹が西方村に越境した。この旨を鳥見に注進すべきところ急のこととて間に合わなかった。また西方村役人にこのことを届け、その指図にしたがわなかったのも当方の手落ちであり、今後は十分注意する、というものである。鷹匠方からの一札には、場所内での取締りについては、同役一同にもよく伝えおき、今後注意するよう取はからう、とある。一件落着後、この西方村の場所違い放鷹一件が上聞に達し、同年五月、西方村役人が鷹野役所に呼ばれ、代官大貫次右衛門から次のように申渡された。
申渡
八条領西方村役人
右は御場所内取締宜、御定法之儀無等閑相守、寄特之筋茂有之、御締行届之趣相聞候間、村役人并小前之者迄誉置可申旨、柳生主膳正殿被仰渡候に付、申渡ス
子五月
つまり、挙場内における御定法を守り、場所違い放鷹一件に対処した西方村の行為は奇特であり、勘定奉行柳生主膳正から村役人はじめ小前の者たちまでおほめの申渡しがあった旨の感状である。このほか八条領村むらに対し、西方村の鷹場取締りに関する奇特な処置を賞与した弘めの触もだされるなど、西方村は破格な名誉をうけたのである。