鷹場村の負担

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鷹場に指定された村々の住民は、なにかと窮屈なものであった。野鳥の保護や鷹場管理のうえで、さまざまな生活上の制約をうけていたことは前述のとおりである。そのうえ、御鷹御用の役人が廻村してくると、そのための諸経費や労力提供が、村びとの大きな負担になった。享保三年(一七一八)幕府の規定(越谷市史(三)六八八頁)では、鷹匠頭の御鷹御用には、伝馬四疋と水夫人足昼夜三人、鷹匠同心には三人につき伝馬一疋と水夫人足昼夜二人、犬牽は三人につき伝馬一疋と水夫人足昼夜一人、餌差は五人につき伝馬一疋と水夫人足昼夜二人宛などと、その役職や人数に応じ、一定の伝馬および御鷹御用にしたがう一定の水夫を、無償で提供しなければならなかった。

 さらに、御鷹御用で鷹匠らが逗留の際は、鷹のために御鷹部屋をつくり、鷹一居につき昼夜三人の鷹番人足をつけるし、上鳥(捕獲した野鳥)を納める鳥籠や挾竹を拵える人足も差出さねばならない。鷹匠らが野鳥を捕えると、この上鳥を納めた籠持の人足が必要となり、上鳥の種類やその羽数に応じて人足の数も定められた。そのほか竹・細苧・縄・蓬草・木札・水浴たらい等の諸品をそろえ、御鷹御用に差支えないように準備することを命じられていた。もっとも、御鷹部屋建設費や諸品の代銭、ならびに鷹番などの人足賃は、村々で明細書を記して代官役所に提出すれば、御鷹野役所から代官役所を通して、月毎に支払われることになっている。この月の勘定仕法は、その後享保四年に、毎月の決算はわずらはしいという理由で、一年一度の支払い勘定に改められた。

 この享保四年度の御鷹御用の人足・諸品代を、戸田五介支配の捉飼場に属した袋山村の仕訳書上げによってみると、鳥番(鷹番)小屋の建設賃銭六〇〇文、鳥番人足等が延三六〇人、一人につき銭一〇〇文でその代銭三六貫文、ほかに越ヶ谷町に差出した水夫人足二人、一人につき銭一三二文でその代銭二六四文、合計銭三六貫八六四文となっている。同じく戸田五介捉飼場である砂原村の仕訳書上げには、鳥番小屋の建設賃その他が銭一貫文、鳥番人足等が延三五四人、一人につき銭一〇〇文でその代金銭三五貫四〇〇文、合計三六貫四〇〇文であった。

 なお、鳥番というのは、はじめ鷹番と称したが、享保二年から鳥番の名称に改められている。おそらく各村ごとに鳥番小屋が建てられ、鷹ならびに鷹場の見張りをさせられていたようであるが、享保六年七月に鳥番は廃止された。「大沢町古馬筥」の記録に

  鷹番の儀自今相止申候、然上は村中の者とも弥々常々油断なく心をつけ、うたがわしき者之あれば急度之を相改るべし、若此已後鳥を取候者之ある時、相改ず候はゝ其村の名主はいうにおよばず、村中の者とも迄越度たるべし、其上又々鷹番申付べき者也

   享保六年七月

とある。鷹場村の過重な負担が考慮されたものであろう。しかし年代が下るにつれ御鷹御用が頻繁となったので、村々では御鷹御用に動員される人足を金で雇った。たとえば袋山村細沼家文書その他の諸家文書中に「金三分三朱、(御鷹)水夫三人分買入給金」などの証文が多くみらる。また御鷹御用で逗留する鷹匠らは、公定の木銭(宿泊代)・米銭(食事代)を支払う。砂原松沢家文書によると、木銭が一日上一人銭三二文、下一人銭一七文であり、米銭は幕府の張紙値段の相場によって支払われることになっている。村方からはこの木銭・米銭の請取に際し、幕府に請取証文を差出した。その証文には、「一、代銭いくら。右は御鷹御用の鷹匠らは、何日から何日までの止宿分として、御定めの米銭・木銭をお支払い下され、確かに請取りました。もっとも止宿中、酒は勿請、馳走がましいことは一切せず、贈り物もしませんでした。御鷹御用中は御家来衆に至るまで非分なことは毛頭ありませんでした」という趣旨の文言が記されている。だが実際には、御鷹御用役人の宿泊には、多分のご馳走が準備されるのを常とした。砂原村の「御鷹掛り諸色通帳」によると、この宿賄いには、炭・薪・酒・醤油・味淋・こんにゃく・豆腐・鰹節・半紙・酢・砂糖・蝋燭などが村入用費から支出されている。しかも鷹匠などの一行には、野廻りらが多勢付添い、それぞれ無賃の廻状や無賃の宿泊が強要されたので、宿泊先にあたった村々の負担は大きかった。

水夫徴用廻状

 このため幕府は、村々の片寄った負担を平均化するため、享保三年(一七一八)、挙場村の御鷹入用割合は挙場惣村の高割り、捉飼場村々の入用割合は捉飼場惣村の高割りと定めている(越谷市史(三)六八七頁)。また享保八年の通達によれば、従来、御鷹御用に動員される人足は、そのたびごとに個別の村々から徴用したが、今後は〝霞〟と称される組合単位の課役として、人足の調達を申しつけるので〝霞組合〟のないところは、早速組合を結成するよう申渡している。

 この霞組合の組織や機構、ならびにその実態については、未だ判然としない点が多いが、たとえば八条領の場合をみてみよう。八条領は挙場領域であったが、宝暦十三年(一七六三)十月、徳川御三卿の一つである清水家の〝御借場〟(将軍家から借用の鷹場)に指定された。このときの八条領霞組合の議定書によると、(1)御鷹御用役人の止宿先は、場所がよいので浮塚村を定宿とする。(2)御用役人が支払う米銭・木銭はすべて浮塚村が受取る。(3)人足諸掛りは、組合村の割当徴用であるが、遠村で難儀の村もあるので、浮塚村以外の村は一率、高一〇〇石につき一年当り銭四〇〇文宛を浮塚村に納める。浮塚村はこの高割出銭ですべてを賄なう。(4)高割出銭は、七月中半分、十二月中半分の二期に分けて納める。(5)御用の僅少であつたときは日割計算で勘定する。もし御鷹御用役人が他村に逗留したときは、これまた日割勘定で清算する、とある。浮塚村ではこの議定にもとずき、宝暦十三年十二月十八日から二十九日までに八五名、翌明和元年一月二日から晦日までに八四名、二月一日から四日までに一二名、合計三ヵ月間に一三一名の清水家御鷹御用役人を取扱かった。このときの役人一人あたりの超過経費は、平均一八二文にあたり、合計銭三貫三二八文の超過出費であった。これを高一万六七五八石余の組合村高にかけると、高一〇〇石あたり銭一三九文である。浮塚村はとりあえずこの出費分の割当徴収をおこなっている。

 なお、西方村はじめ八条領は当時清水家の鷹場であったが、鷹場の管理はやはり公儀鳥見が支配していたようである。西方村須賀家文書によると、天明九年(一七八九)一月、鷹二居を携えた戸田五介組鷹匠同心近藤弥治右衛門ほか二名、ならびに随行の野廻衆が、二郷半領川留村から西方村に宿替えするので、一行の旅宿と伝馬を用意するよう西方村に先触が届いた。西方村は清水家鷹場であり、公儀鷹匠の止宿は先例がないとして、これを葛西御掛り、公儀鳥見飯田久太郎役宅に注進し、このような間違いをおこさないよう願っている。

 その後、寛政二年(一七九〇)一月、八条領の清水家鷹場は、清水家の財政倹約を理由に将軍家へ返上されたので、八条領は再び挙場に復した。

 なお江戸時代の鷹場制度は、慶応二年(一八六六)にいたり、鷹匠・鳥見の廃止によって終りを告げた。