農村の商品生産

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近世に入って行政単位の村としての新しい村が成立したが、その村の主要な構成員は本百姓と呼ばれる小農民であり、領主に対して年貢・課役を納める義務を負うかわりに、田畑の耕作権を認められた自営農民であった。はじめは自給自足経済を基本とした体制が維持され、農民は毎年年貢を領主に納入し、自身が生活するための夫食(自家用食料)などを差引くと、後にはなにも残らない単純再生産の繰返しであった。

 しかし近世も中期以降、農業生産がいちじるしく上昇し、年貢や夫食を上廻る余剰生産物が得られるようになると、この余剰生産物を換金化して衣料・雑貨・肥料・農具、あるいは雇傭人の賃金などの生産費や消費に充(あ)てられるようになった。これがついには土地の購入拡大をはかる地主層の発生を促し、また販売を目的とした農産物の生産や加工生産の展開を促進した。こうして農村に、商品の生産を目的とした新しい農業が振興してくると、本百姓を主体とした従来の村々の構造に変化がみえてきた。すなわち閉鎖的であった共同体村落の伝統的な秩序がくずされ、貨幣経済が浸透した開放的な村落への変貌が、徐々にではあるが形成されつつあったのである。

 こうした動きは、生産力の発展していた近畿地方では、すでに一七世紀後半から活発になっていたが、その動きは後進地関東にもしだいに波及していった。このように、農村構造に変化をおよぼした関東の商品作物としては、たとえば木綿・菜種・藍・漆・楮などの換金作物があげられるが、ことに大都市江戸の近郊村々からは、蔬菜・雑穀・米が商品作物としてさかんに江戸へ出荷された。これにともない農産加工品や手工業品も生産されたが、このうち狭山の茶、小川の和紙、深谷の瓦、川口の鋳物、銚子と野田の醤油、佐原と流山の酒・味醂、八王子の石灰などが有名である。また織物生産も、北関東の桐生や足利などとならんで秩父・八王子・岩槻などがさかんとなり、自給的経済にとどまっていた後進地農村にも、農民的商品生産が次第に一般化していった。

 越谷地域は水田稲作地帯であったので、米や餅米の生産が顕著であったが、さらにまた、大都市江戸の近郊農村であった関係から、換金作物としての雑穀や蔬菜の生産もさかんであった。そこで越谷地域の商品生産や商品流通の実相をみる前に、まず当地域の農業の実態について述べておこう。