越谷地方の自然条件については、すでに第一編で詳細に述べた通りである。江戸時代にあっても、これと根本的な大きな相違はなかった筈である。しかし、当時にあっては今日以上に農業経営に及ぼす自然の影響は強かったと考えられるので、一応史料によって当時の農業生産の自然的基礎を明かにしてみたいと思う。
江戸時代の気候条件を示す史料は少ないが、村明細帳などに若干の記載がある。享保六年(一七二一)四月の袋山村鑑帳には「寒暑の義江戸にくらべ、寒は江戸より少し強く、暑は江戸同前に御座候」(袋山細沼家文書)とあり、享保十年七月の西方村の場合は「当村寒暑の義、江戸同前に御座候」(西方村「旧記弐」)と記している。江戸より四里から九里前後の越谷地方の寒暑は、江戸と比べて寒さが少し強い程度で、あまり変りなかったわけである。
平方村林西寺の役僧が書いた「白龍山日記録」には、年間を通しての晴雨等の天候が記されている。安政六年(一八五九)と万延元年(一八六〇)の二年分について整理したのが第1表である。わずか二年間の記録で、しかも今日のように気温と降水量を測定し、クライモグラフを描いたものではないので、的確にその特徴をつかむことは難しいが、それでも三月の菜種つゆ、六~七月の梅雨を、雨天の日数から読みとることができるように思う。また冬は晴天が続き、十二月から三月までの間に雪が記録されている。八~九月には大嵐が吹き、ほぼ現代と同じ気象条件であったように思われる。
陽暦 | 快晴 | 晴 | 曇 | 雨 | 雪 | 不明 | 計 | 風 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
安政6年1月 | 4 | 23.5 | 1.5 | ― | ― | 2 | 31 | ― |
2月 | 5 | 13 | 3 | 1.5 | 3.5 | 2 | 28 | ― |
3月 | 2 | 15 | 2.5 | 3.5 | ― | 8 | 31 | ― |
4月 | 1 | 21 | 1.5 | 3.5 | ― | 3 | 30 | 1 |
5月 | 7 | 14.5 | 5 | 3.5 | ― | 1 | 31 | ― |
6月 | 4 | 14 | 5 | 5 | ― | 2 | 30 | ― |
7月 | 6 | 14.5 | 5.5 | 5 | ― | ― | 31 | 一 |
8月 | 2 | 21 | 4.5 | 2.5 | ― | 1 | 31 | 1 |
9月 | 1 | 16.5 | 9 | 1.5 | ― | 2 | 30 | ― |
10月 | 3 | 17 | 4 | 6 | ― | 1 | 31 | ― |
11月 | ― | 19.5 | 7 | 3.5 | ― | ― | 30 | ― |
12月 | ― | 26 | 1 | 1 | 1 | 2 | 31 | ― |
計 | 35 | 215.5 | 49.5 | 36.5 | 4.5 | 24 | 365 | 2 |
万延元年1月 | ― | 24 | 2 | ― | 3 | 2 | 31 | 1 |
2月 | ― | 24.5 | 1 | 3.5 | ― | ― | 29 | ― |
3月 | 1 | 10.5 | 8 | 8.5 | 3 | ― | 31 | ― |
4月 | 1 | 21.5 | 2 | 5.5 | ― | 一 | 30 | ― |
5月 | 1 | 19.5 | 2.5 | 7 | ― | 1 | 31 | ― |
6月 | 1 | 15.5 | 2.5 | 11 | ― | ― | 30 | ― |
7月 | 1 | 22.5 | 0.5 | 7 | ― | ― | 31 | ― |
8月 | ― | 25 | 2.5 | 1.5 | ― | 2 | 31 | 1 |
9月 | ― | 18.5 | 2.5 | 8 | ― | 1 | 30 | 1 |
10月 | ― | 22 | 6 | 3 | ― | ― | 31 | ― |
11月 | ― | 20.5 | 4 | 3.5 | ― | 2 | 30 | ― |
12月 | ― | 22.5 | 5 | 2.5 | ― | 1 | 31 | ― |
計 | 5 | 246.5 | 38.5 | 61 | 6 | 9 | 366 | 3 |
〔注〕「白龍山日記録」より作表。いずれも陽暦に換算し,1日の天候に〝晴のち曇〟とある場合は,晴曇とも0.5として計算した。
越谷地域は全く洪積台地をもたない、今日でも海抜平均五メートル位の低平な沖積平野に位置している。この沖積平野は南流する古利根川・元荒川・綾瀬川等の諸河川によって形成された細長く連続する自然堤防と、広々とした後背湿地とに分けられる。江戸時代になると、この自然堤防の微高地は畑地として、後背湿地の沼沢地は水田として盛んに開発されたわけであるが、開発による耕地の拡大の様子を村の反別や石高の上からみると、すでに第四編第二章の第4表(四四一頁)で示したように、慶長年間から寛永年間にかけて飛躍的な開発がみられ、ほぼ元禄年間には固定していたことが知れる。また同じく第四編第二章の第6表(四四八頁)によって田畑の割合を比較すると、袋山村のように一〇〇%畑地の自然堤防上の村から、七左衛門村のように九七%が水田の後背湿地の村まである。しかし、どちらかといえば水田率が五〇%を越える村が三三ヵ村(七五%)で、水田の優越した地域ということができる。
越谷地域の土質については、袋山村の享保六年の村鑑帳は「当村は砂真土」といい、西方村の享保十年の村明細帳は「当村土地の義、いなこ真土すくも土に御座候」といっている。明治八年(一八七五)の『武蔵国郡村誌』によってみると、越谷地域の土質は砂・真土・埴土(へなつち)等とある。真土は耕作に適する良質の土壌で広く分布している。そして自然堤防の発達した元荒川や古利根川の流域の畑地は砂が混り、後背湿地の水田には埴土という粘土質のものが混っている。
以上のような地形や土質のため、自然堤防上の畑地は「旱損の節は砂真土にて大旱損仕り候」(袋山村)といって、旱害をうけやすかった。これとは逆に後背湿地の水田の方は「私共村の儀、先来地低く沼田など多く、殊に村内用悪水路数多これあり候村々多く、平年共雨降り続きの節は、田畑水腐れ難渋罷り在り候」(七左衛門井出家文書)という状態で、排水が悪くて水害に苦しめられた。年中水がたまっていたので、越谷地域の水田は一毛作が中心となっていた。