旧蒲生村の大熊家に「籾種及肥料扣帳」(大熊康信氏蔵)という横帳がある。表紙はすっかり黄ばんで煤けてしまっているが、これは安政五年(一八五八)から大正十一年(一九二二)までの六五年間にわたる大熊家の農業経営の記録である。安右衛門以下三代にわたって毎年稲の品種別作付面積・種籾量・収穫量および購入肥料などをたんねんに書きついだ非常に貴重な記録である。この記録を中心に、その他の史料を若干加えて、近世後期の越谷地方の水田農事暦を作成してみたのが第3表である。以下これによって、稲作水田作業とそれに関する農耕儀礼をみていくこととする。
(1) 春の耕し 一般的に一年の農作業は正月十一日に行なわれる「鍬入れ」に始まるといわれるが、これは農耕儀礼であって、本格的な作業は春の耕しに始まる。東方村と隣村見田方村とが弘化二年(一八四五)二月に定めた「農休録」によると、三月(陽暦四月)の欄外に「一番耕男女」とあるので、このころに一番おこしをしたと思われる。
(2) 籾種の水入れ 苗代をつくる前の措置として、病虫害を予防したり発芽を促進させるために籾種を水に入れる浸種がある。「籾種及肥料扣帳」によって水入れ日をみると、幕末期で最も早い例は文久三年の陰暦二月十三日(陽暦三月三十一日)、最も遅い例は元治三年の三月二日(陽暦四月七日)である。幕末期は概して早く、明治期に入るとやや遅くなり、明治十二年ごろからほぼ四月七日(陽暦)か九日に集中している。八日が一度もないのは、四月八日が花まつり、薬師の縁日で農休日であったからであろう。
(3) 籾種の蒔入れ 水入れした籾種はやがて苗代に蒔入れられるわけであるが、幕末期で最も早いのは安政七年の三月二十八日(陽暦四月十八日)、最も遅いのは安政六年の三月十九日(陽暦四月二十一日)である。明治期は三月二日(明治四年、陽暦四月二十一日)が最も早く、遅いのは四月二十五日(明治十四年)である。水入れ日に対応して蒔入れ日についても幕末期の方が若干早いことがわかる。
また水入れ日と蒔入れ日の両方わかるものから浸種期間をみると、幕末・明治期とも最長一八日間、最短一四日間で全く同じである。この期間は厳密には水に入れておく期間と、水からあげて乾燥催芽させる期間(この方が短い)とにわけられるが、これについては記録がない。なお七左衛門村井出家の場合は三月上旬に浸種、期間は九日前後で短いという(以下井出家の場合は横銭輝暁氏「近世後期の越谷地方の農業技術」『越谷の史跡と伝説』所収による)。
(4) 苗間肥 苗代をつくるための「なへまごへ」の準備もおこたりない。「籾種及肥料扣帳」では三月五日(文久元年、陽暦四月十四日)から三月二十四日(陽暦五月三日)までの間に船肥(下肥)十荷と飴粕一俵を購入している。明治期には十三年四月十八日に一〇荷、十七年五月十六日に八荷の下肥を苗間肥として購入している。
(5) 慈姑(くわい) 四月(陽暦五月)に入ると苗代を管理するかたわら、田に「くわへ」を栽培する準備にかかる。大熊家では閏三月二十日(万延元年、陽暦五月十日)を最も早いものとし、四月十四日(慶応二年、陽暦五月二十七日)までの間に年々慈姑種を一千束から二千束、岩槻領横根村粉屋から購入している。慈姑は田一面に栽培するだけでなく、稲と混作する場合もあったのであろう。慶応二年のからす稲の栽培地に慈姑を栽培している記述がある。また慶応二年七月六日(陽暦八月十五日)には下肥一二荷を慈姑の肥として購入しているので、この頃追肥をやったのであろう。明治八年五月二十九日にも慈姑種五百束を購入している。
(6) 野馬の雇入れ 慈姑種の買付や植付が済むと次は田植のための代掻(しろかき)である。村明細帳などによってみると越谷地方の農家で飼育していたのは馬であって、牛は一疋もいなかった。袋山村では享保六年に七二軒中一三疋(一八%)、西方村では享保十年に一四九軒中三八疋(二六%)、七左衛門村御料分では天保五年に六九軒中一二疋(一七%)の馬を飼っていた。これを所持石高と関係させてみると、天保五年の七左衛門村では、五〇石以上の高持は銘々馬を飼っていたが、それ以下では段々と保有率は低くなり、一石未満や無高層には皆無であった。
ところで大熊家は約二町歩の手作地を経営していたが、馬を持たなかったのであろう。野馬を雇入れて代掻をしている。文久元年の場合は四月十八日から二十七日(陽暦五月二十七日から六月五日)、文久三年は四月九日から十六日(陽暦五月二十八日から六月二日)、明治八年は五月三十日から六月六日、同十四年は五月三十日から六月八日、同十九年は六月二日から七日までの例がある。雇入れ期間は八日から一〇日間位で、雇先は大谷場村大工常吉に二度ほど頼んでいるが、年により変り一定していなかった。
(7) 田植 田植については東方村に用水掛り役所へ提出した天保六・七・八年の三ヵ年分の「田方植付証文」の控がある(越谷市史(三)四三〇頁)。天保六年のものを例にあげると、「苗代時節より用水丈夫に御仕掛け下され、五月四日より植付け取掛り、五月十九日迄残る所なく植付け相済み」とある。これによると天保年間の田植は、たとえば天保六年の場合は五月四日から十九日(陽暦五月三十日から六月十四日)、翌七年は四月十五日から晦日(陽暦五月二十九日から六月十三日)、さらに同八年は四月二十七日から五月十七日(陽暦五月三十一日から六月十九日)ということになる。陽暦五月末から六月中旬にかけて、日数にして一六日から二〇日間で東方村八七町四反余りの田植を済ませたわけである。
(8) 早苗振休日 田植の終った日が「サナブリ」と称する田植仕舞の祝日である。この行事は家ごとに植え終って行なう形態(家サナブリ)と、日を定めて村中一同に行なう形態(村サナブリ)とがある。「農休録」をみると五月(陽暦六月)の欄外に「△早苗振休日」とある。△印は「時宜見合触ル」休日を意味している。早苗振休日を農休録に規定しているところからすれば、これは村サナブリであり、「時宜見合触ル」というのは年によりかならずしも田植の終了日が一定していないからであろう。さきの東方村の田方植付証文によってみると、天保六年には五月十九日(陽暦六月十四日)、同七年には四月晦日(陽暦六月十三日)、同八年には五月十七日(陽暦六月十九日)に田植が終っているので、東方村ではこのころ村中の早苗振休日をとったものと思われる。村中で早苗振休日をとるのは、村方が用水掛役所へ田方植付証文を差し出すことでわかるように、田植が村全体の共同責任になっていたがためであろう。
(9) 除蝗 田植後は水の管理・除草・追肥など、いろいろの作業が続くが、ほかに自然の災害から稲を守り、順調に成育することを祈願する行事もあった。その一つが稲の虫害の駆除のために行なう「虫送り」の行事である。弘化二年の「農休録」には男女の休日として「六月十二日(陽暦七月十六日)除蝗」としてあるので、東方村や見田方村ではこの日に虫送りをしたと考えられる。
またこの虫送りは、昭和四十四年の調査報告書『越谷市民俗資料』によると、都市化のはげしくなる四~五年前までは、上間久里と増林(七月十七日虫送り)、増森(七月十七日虫追い)、砂原(虫おっぱらい、虫おくり)、小曾川(七月十四日)、谷中と瓦曾根(ムシオイ)、蒲生(六月五日虫追い)などで行なっていたという。なお新方地区の農家では今でも七月二十四日の夜、大小思い思いのタイマツをともして、鉦や太鼓を鳴らしながら「稲の虫ホーイホイ」といって稲田のあぜ道を歩いてまわっている。
(10) 八朔田実祝(はっさくたのみのいわい) 弘化二年の東方・見田方村の「農休録」によれば、八月朔日(陽暦九月二日)は「八朔田実之祝」としてある。これは「八朔節句」のことであろう。八月一日に行なわれるこの行事はタノミまたはタノモの節供ともいわれ、稲の穂出しを祈願する行事である。西日本にさかんで、この日の朝早く稲田のあぜに出て作頼みをする村々が多いという(文化庁文化財保護部監修『日本民俗資料事典』)。
また八朔の日には品物を贈答することが古くから主従や姻戚関係に多く行なわれており、埼玉、群馬、静岡などの一部ではショウガ節供(せっく)といって、新嫁が生姜を土産にして里帰りする。これにはやがて迎える収穫時の労働力をタノムという意味もあったという。『越谷市民俗資料』によると、越谷地方ではショウガ節供としての系統は長く伝えられたが、タノミの節供としての系統は早く忘れ去られたようである。
(11) 雨乞い 早苗振休日・除蝗・八朔田実祝は毎年行なう恒常的な農耕儀礼であるが、このほかに臨時の儀礼の一つとして、旱魃にあたって神に降雨を祈願する「雨乞い」がある。
農家は田方の用水の不足や旱魃に備えて水車(揚水車)を用意していた。天保九年(一八三八)の七左衛門村(幕領分)は六九軒中水車四五挺(六五%)を備えていた。しかし低湿な後背湿地に位置する越谷地方の水田地帯では、他所が旱魃に苦しむくらいでちょうどよいほどであった。明和九年(一七七二)正月二十六日付の越巻村の「産社祭礼帳」(越谷市史(四)八六一頁)は「去ル卯年(明和八年)四月ヨリ暮マデ大旱魃、田畑不熟ス、然レドモ当村ハ上熟致シ候、所々水論多シ、所々水車発向ス、是ヲ大和車ト言」と記している。この水車ではいかんともしがたいほどの日照りが続いた時、雨乞いの神頼みが行なわれるのである。つぎに江戸時代に行なわれた雨乞いの例を三例あげてみよう。
寛政六年(一七九四)の六月から七月(陽暦七月から八月)にかけて、いままでにない日照りが続き、瓦曾根の溜井の水が干上がって、瓦曾根・西方・登戸・蒲生の四ヵ村をはじめ、八条領一帯の水稲は枯死寸前となった。そこで村々は相談の結果、西方村の大相摸不動尊に雨乞い祈願をした。念仏をとなえ、鉦や太鼓で一心に祈願すること七日、満願の日の昼頃一天にわかにかき曇り、雷をともなった大雨が襲来した。以後作柄も好転して人びとの喜ぶこと限りなかったという(西方村「旧記」四)。
また天保十年(一八三九)には、五月から日照りが続き、田植はようやく済ませたが用水に困った。そこで六月十日神明下・谷中・四町野の各村と越ヶ谷町では、雨乞いの代表を「春奈様」(榛名山)へ送った。御水を貰って十三日朝帰村、四ツ時より本耕地から始めて三組に分れ、笹で御水を振り歩いた。新町灰問屋脇、町方通り、袋町通り、花田耕地と振り歩き、さらに鎮守の庭でお神酒を半樽あけて、肴豆腐をあげて祈願した。するとようやく七月十四日昼七ツ頃より少し雨が降り始めた(「記録」内藤家文書)。
文久三年(一八六三)五月十七日(陽暦七月二日)にいままで日照りが続いたので、鈎上新田・西新井・谷中・末田の四ヵ村は久伊豆社前において五日間の雨乞い祈祷をした。村役人は小前の者を同道して参詣し、例の通り御札を配布した。
以上のように鉦や太鼓で七日間祈祷するもの、御水をもらってきて振り歩くもの、御札を配布するものなど祈願方法はさまざまであったが懸命に雨乞いの神頼みをしたのである。
(12) 用水不用証文 村々は用水組合をつくり、苗代の時節より用水の秩序ある利用に努めてきたが、二百十日も過ぎて無事収穫期を迎えるころになると、「用水不用証文」を用水掛り役人中へ提出した。葛西井筋拾ヵ領組合のうち新方領に属する平方・船渡・大松・大杉・川崎・向畑・大吉・弥十郎・増林・増森・中島・小林の一二ヵ村は慶応三年(一八六七)「当卯田方の義、苗代時節より御差配を以って流末迄潤沢仕り、組合村々大小の百姓一同有難く存じ奉り候、最早弐百十日後にも相成り用水不用に付、松伏溜井関枠戸板開き払い、御場所御引払いに相成り候共、村々一統差しつかえの義御座なく候」(越谷市史(三)六九八頁)と届け出ている。
(13) 稲の盗難防止 農民は以上のような農作業と農耕儀礼を続けながら懸命に稲を守り育て、やがて収穫の秋を迎えるわけである。ところがこうして大切に育てた稲が時として盗難にあうということもあったようである。こうした不心得者から作物を守るために、東方村や見田方村は嘉永元年(一八四八)九月の「議定取究惣百姓連印帳」に次のような一条をもうけていた(東方中村家文書)。
一、田方諸作物一切、並堤川堀添等ニ有之候竹木柳葭萱等、苅盗採り申間敷、若少したり共無断盗取候もの、風聞たり共相糺、老若男女ニ不抱、村議定通り過料銭為差出、其上御役所江可申上候、銘々妻子迄江急度申含置、心得違無之様可致事
付、稲盗取候者、過料銭拾五貫文
畑諸作物一切並萱柳等盗取候者、拾五貫文
竹木並樹木果もの類一切、五貫文ツゝ
老若男女にかかわらず、稲や一切の畑作物あるいは萱柳などを盗みとったものには一五貫文、竹木・樹木・果物類を盗みとったものには五貫文の過料銭を差出させたうえで、役所へ届けることにした。
(14) 収穫期 蒲生村大熊家の「籾種及肥料扣帳」には籾種の播種量・作付面積・収穫量とともに収穫日が書き加えてある場合がある。収穫日といってもこの日付は苅り取った日付ではなく、脱穀・調整を終了して収穫量を確認した日のようである。文久三年(一八六三)の場合は農事暦(第3表)に示した通りであるが、大熊家の収穫期は早稲が七月中旬から八月上旬(陽暦八月末から九月下旬)、中稲が八月下旬から九月(陽暦十月中旬から十一月)、晩稲が十月(陽暦十一月から十二月上旬)ごろである。七左衛門村井出家の場合は早稲が七月中旬、中稲が八月頃、晩稲が九月頃であった。
ただし風水害により稲が倒伏し、籾が萠腐れになるような場合は、多少でも収穫を得ようとして災害に見舞われた時点で刈り揚げてしまった。安政六年七月二十四、五日は大風雨で忍領北河原堤が決潰して出水したので、「種籾も差しつかうべきと周章、最早追〻実入り最中の早稲は其儘水底に差置き候ては、暑気強く候時節忽ち皆水腐れ仕るべきは眼前の儀、依ては空敷(むなしく)取実を失い候儀は勿論、悉く急水に付万〻一流失の程も計り難く、困窮のもの共少しも前後の勘弁これなく、水丈深く身躰危難をも顧みず、実入懸候稲」を苅り揚げてしまった。増林村は一〇五町三反余歩のうちの三町歩、増森村は二町八反余歩のうちの約五反歩の早稲を苅り揚げたと届け出ている(越谷市史(四)六三六頁)。
越谷地方の水田は排水が悪かったので、苅り揚げの時には田舟を使った。天保九年(一八三八)の七左衛門村明細帳には「田船三拾五艘、是は地窪の村方故、稲刈揚げの節、又は出水の節用意に百姓所持仕り候」とある。文政三年(一八二〇)の大間野村には一三艘の田舟があった。
なお苅り揚げた稲を乾燥させるためには立木を利用するか、竹で稲架を組んだものと思われる。安政六年三月の「白龍山日記録」(平方村林西寺蔵)をみると、「又兵衛小作畑の畔へ、はんの木苗五十本植付」との記事がある。畑の畔へ植えたはんの木が大きくなれば、その立木を利用して稲架を作ったり、あるいは枝を落して薪に利用したのであろう。また鷹場の野廻り役人新井栄次は「未だ其村宿地内に稲野干竹数多これある場所は、大里村下迄にこれあり候に付、大林・大里両村内百姓方にて度々承給り候処、皆大沢宿・大房村百姓の分にこれある由申候に付、書付を以て申談じ候」として、苅り揚げのために用いた干竹を至急取り払うように大沢宿の役人に廻状をまわしている(越谷市史(三)七三一頁)。
(15) 年貢の納入 農民は早稲から順に苅り取りながら脱穀・調整し、さらにはそれを年貢として分納していくわけであるが、その様子は東方村の天保五年(一八三四)八月二十三日付の願書(東方中村重義家蔵)でもわかる。
一、八条領御領分左之村々一同奉願上候、当御年貢早稲御納所之儀、九月五日始御納所可仕旨被仰付一同奉畏候、然ル処田方之義、八月十三日夕ゟ翌十四日迄之大風雨ニ而、早稲中稲之分悉吹倒、追々実法ニ相成候間、此上大雨御座候而は萠腐ニ相成候間、早稲中稲共吹倒候分引続苅揚仕度、右御納所御日延奉願上候、尤九月廿日始十月晦日迄出情、皆済御上納可仕候間、何卒右之段御聞済被成下候様一同奉願上候、以上
今年の年貢のうち早稲の納所は九月五日(陽暦十月七日)始めのところ、八月十三日(陽暦九月十五日)夕より翌十四日までの大風にて、早稲・中稲とも吹き倒されてしまった。このままにしておいて大雨でもあると萠腐れになってしまうので、早稲・中稲とも倒れた分を引き続き苅り揚げたい。年貢は九月二十日(陽暦十月二十二日)始め、十月晦日(陽暦十一月三十日)までには皆済上納するので、納所を日延べしてほしいと願いでているのである。
また文化十四年(一八一七)の砂原村の場合は、六〇七俵一斗の年貢米を、九月二十四日(陽暦十一月十三日)に米二一五俵、十一月四日(陽暦十二月十一日)に米二一二俵と餅米一三俵、十二月二十三日(陽暦一月二十九日)に米一五六俵一斗と餅米八俵の三回に分けて納めている。
その年の納むべき年貢額や納入期限は毎年役所より下付される「年貢割付状」によって示される。登戸村では定免・破免検見のいずれの場合でも十月(陽暦十一月下旬から十二月上旬)に割付状がだされ、極月十日(陽暦一月上旬から中旬)限り皆済するよう命ぜられた。これに基づき脱穀・調整された玄米は小きざみに早稲から分納しはじめ、その都度「小手形」を受け取り、やがて全納すると「年貢皆済目録」がだされる。年度により文面に若干の差異はあるが、皆済目録の末尾は次のようなものである。
右は去申御年貢本途高懸物其外共、書面之通令皆済ニ付、小手形引替一紙目録相渡上者、重而小手形有之候共可為反故もの也
文政八年正月 伊友之助印
文政八年(一八二五)以後史料のある三〇年分の登戸村の納期をみると、極月十日の納期までに皆済できたのは十一月中二回(天保九・十一年)、十二月中九回(天保七・八・十・十二・十三・十四・嘉永二・四・安政元年)である。そのほかの十九回(文政八・弘化二・三・四・五・嘉永二・六・七・安政四・五・六・七・万延二・文久二・三・元治二・慶応二年)は翌年の正月に持ちこされている。特に幕末はほとんど毎年のように納期を越えてから皆済していることがわかる。