肥料

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村明細帳などによってみると、江戸時代の武蔵の農民が用いた肥料は、はじめ苅敷・草こい・灰・藁・落葉・馬屋肥・掃溜肥など、農民の生活や生産のなかから生み出される自給的なものが中心であった。しかし時代が下るにつれて、干鰯・こぬか・〆粕・飴粕・酒粕・醤油粕・油粕・下肥などの購入肥料が、都市近郊の蔬菜栽培地帯や商品化した特産物を生産する地域に、はやく利用されるようになった。

 越谷地域の村々のうち、たとえば袋山村は、「一、草苅場御座なく候、但し秣の義野道畑廻りにて苅取り用い申し候 一、御林御座なく候 一、百姓林弍町九反七畝四歩」(享保六年四月「袋山村村鑑書上ヶ帳」)とあり、また西方村は、「一、当村苅場御座なく候、但し秣の義道端ならびに田畔等にて草苅取り秣に用い申し候 一、当村に御公儀様御林百姓林共に御座なく候」(享保十年七月「西方村村鑑明細書上帳」)という状態で、苅敷・落葉・草肥といった自給肥料に乏しかった。したがって、米や蔬菜の商品化がさかんになるにつれ、当地域では購入肥料金肥が比較的はやく導入され、幕末には一般化されていたようである。

 蒲生村の大熊家は、安政五年以降大正期までの「籾種及肥料扣帳」によると、下肥、〆粕・飴粕・大豆粕・羽粕・ながらみ・するめ粕・えびかす・水油粕・南京米など、さまざまな名称の購入肥料を用いている。

 これらの肥料を作物の種類や作付面積に応じ、いつどれくらい施したのであろうか。なかなか具体的なことはわからないが、大熊家の安政五年から明治三十五年までの四五年間にわたる肥料の使用状況は第7表の通りである。下肥・〆粕・飴粕が大熊家の主要な購入肥料である。下肥は〆粕や飴粕に比べて安価なので大量に使用されている。前述のごとく大熊家は、安政六年から明治二十一年までは約二町の田を手作経営していたが、明治二十二年からは約一町五反に、同三十一年からは約八反歩に手作地を縮小し、寄生地主化している。肥料の使用状況はこの経営規模の推移と対応している。

第7表 蒲生村大熊家の購入肥料(安政5年~明治35年)
下肥 〆粕 飴粕 その他(大豆粕羽粕等)
安政5~文久2 384.5 35 102 51
文久3~慶応3 912.5 117 27 45
慶応4~明治5 410.5 174 5 18
明治6~同10 224 81 84 2
同11~同15 347 115 78.5 39
同16~同20 277 123 79 51
同21~同25 100 51 110 9
同26~同30 25 25 63 5
同31~同35 45 28 29 14

 〔注〕「籾種及肥料控帳」より作成。

 なお農業経営を維持するため、領主はしばしば農民に対して肥料を貸付けた。天保五年(一八三二)に忍藩領東方村の農民一三名は、前年の凶作で夫食に差しつかえる、そのうえに肥料が高値でとても手に入らないからといって、肥料用の魚粕二五俵を役所から拝借している。