畑作雑穀生産

713~714 / 1301ページ

つぎに越谷地方で栽培された主要な畑作物である小麦と大豆について、その栽培状況をみてみよう。まず小麦であるが、小麦は農民の食料の大部分を供給する大切な作物であった。越谷地方は水田の水はけが悪く、前述のとおり一毛作地帯であったので、水田の裏作として小麦を仕付ける場合はまだなかったようである。小麦は畑の冬作が中心で、稲の収穫の一段落しかかった十月十日前後(陽暦十一月上旬)に蒔き付け、翌年五月(陽暦六月下旬)に収穫した。

 なお参考のため越谷地方における麦・大豆など雑穀類の生産量を「武蔵国郡村誌」(明治八年時の調査内容を示す)によってみると後掲第9表のようになる。越谷地方では小麦よりも、おし麦あるいはひきわり麦として米飯に混用される大麦の方がさかんに栽培されている。いずれにしても麦類は主食作物としてどこの村でも欠かせない作物であったことがわかる。

 つぎに大豆について述べよう。副食物・調味料原料として重要な大豆は平方村林西寺の例では万延元年の閏三月二十六日(陽暦五月十六日)に蒔かれている。多分麦の条間に蒔きつけたもので、畑では麦との二毛作になるのであろう。収穫は安政六年八月十日(陽暦九月六日)から大豆を引き抜きはじめ、同月十七日から二十二日にかけて豆打ちを行ない、九月八日(陽暦十月三日)には味噌を三樽つきあげている。また万延元年の八月二十二日(陽暦十月六日)には七俵の大豆を収納、うち六斗を味噌糀にし、八月二十三・二十四日に味噌をつきあげている。味噌は第二次大戦後も自家製造していた農家が市内に残っていたくらいであるから、江戸時代にあってはもちろん自給自足していたわけである。

 大豆はまた畑の年貢として納められる大事な作物である。文化十四年(一八一七)十二月二十三日に砂原村(六浦藩領)は六俵八升の大豆を納入している。西新井村(岩槻藩領分)は年不詳であるが、卯八月二日に大豆九升三合余、九月十七日に大豆九升四合を岩槻会所に納入している。

 自家用に使い、年貢に納めたうえ、余った大豆は商品化された。林西寺は元治元年に越ヶ谷宿穀屋へ三俵、万延元年に忠兵衛へ六俵程売却している。また藤塚村は、元文二年のころ大麦や大豆・小豆を江戸や越ヶ谷町市場へ売り渡していた。

 なお、越谷地域における明治初期の豆類の生産額は、小豆より大豆の方が産額が多く、麦類と同様にほとんどの村方で栽培されていた。