蔬菜

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『新編武蔵風土記稿』のなかで、武蔵各地の蔬菜の特産物をあげている。このなかで「午蒡・大根・葱は、岩槻・越ヶ谷辺の名物として世に称せり」とある。ことに午蒡は砂原村の特産物であったとみえ、砂原村享保九年(一七二四)の村方出入り訴訟書(松沢家文書)によると、砂原村では例年年頭の挨拶として、特産の午蒡を領主米倉氏に献上している。おそらく良質な午蒡として、はやくから商品作物化していたものと思われる。越巻村丸の内産社の貞享五年(一六八八)の「入目覚」によると、このときの産社祭礼の購入品は、とうふ・こんぶ・かつをぶしなどとともに、午蒡や大根があげられており、当時すでに午蒡や大根が商品化されていたことが知れる。

 またくわいや蓮根が大間野・越巻・蒲生等の低湿地域村々を中心に広く栽培されていたが、西方村「旧記参」によると、天明六年(一七八六)の関東大水害後、稲作が全滅した西方村では、くわいに肥料をほどこしたところ「殊のほか宜しく出来候故、暮・春に相成り、一荷にて五貫・六貫位に売り申候故、其節の銭相場に直し候えば一荷一両余りにも相当り候間、大きに足合に相成り申し候」とあり、くわいは商品作物としてはやくから栽培されていたようである。

 このほか蓮根や野菜物についても、安政二年(一八五五)の蒲生村明細帳によると、前栽(せんざい)(野菜)・蓮・くわい等を作り、千住河原町にまで売りだしていたとあるので、当時は主要な商品作物であったとみられる。このうち蓮根の生産量を『武蔵国郡村誌』でみると、西新井村が二五〇駄、越巻村が一六〇駄、大間野村が一二〇駄、長島村が八二駄、後谷村が七五駄、登戸村が五〇駄であり、主に荻島・出羽・蒲生地区で栽培がさかんであったことが知れる。なお、一駄は馬一疋分の荷である。また里芋は千疋村が五五〇貫、見田方村が五〇〇貫、四条村が三二〇貫、東方村が六二貫の生産量であり、大相模地区で集中的に栽培されている。このほか甘薯が砂原村で一二駄、小曾川村で一〇駄産出されているので、甘薯も栽培されていたことが知れる。これら越谷地域の蔬菜の栽培をみると、ほとんど根菜が主であるが、葉菜類も生産されていたに違いない。しかしその生産物や生産量はいまのところ不明である。