木綿

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江戸時代に入ると、綿布が麻布にかわって庶民の常用衣料になるにしたがい、各地で木綿が広汎に栽培されるようになった。ことに関東地方の綿作は、利根川通り羽生・館林の付近、思川通り栃木の付近、鬼怒川・小貝川通り真岡・下館の付近がさかんであったが、これらの地域は新田として開発された河川流域の川砂堆積地域であった。このほか岩槻は白木綿の集散地として知られるが、ここに集められる木綿の産地は、幸手・菖蒲・粕壁などの地域であったといわれる。これらも同じ古利根川通りの流域地帯であり木綿の栽培は川砂堆積地が適していたようである。

 岩槻に近い越谷地域の木綿栽培の実態は不明であるが、村々が領主や代官に提出する村明細帳(現在の村勢要覧に相当する)には、しばしば女は農間木綿糸はたを織っていると記している。たとえば西方村享保六年(一七二一)の「村鑑明細書上帳」には、「当村男女渡世の義、農業一通りの渡世送り申し候、あわせて朝夕男は縄・俵・むしろ等仕り候、女はぬいせんたく、木綿糸はた等仕り候えども、なかてをつみ、夫食飯料等の拵え仕り候につき、糸はたの儀は入用ほども出来仕らず候」とあり、女は木綿糸はたを織っているが、野菜を摘み食事の支度をするので、自分用の綿布も満足にはつくれませんといっている。しかし村明細帳は、領主・代官に報告する書類であるので、ひかえ目に記載するのが普通である。

 いずれにせよ木綿は越谷地域でも広く栽培されたのは事実で、越巻村「産社祭礼帳」によると、天明八年(一七八八)は春から秋にかけては日照りが続き、木綿は大あたりであったとある。また越ヶ谷本町内藤家の記録では、天保十一年(一八四〇)の秋は、地綿五、六分位の作柄であったとある。このほか、大沢町鈴木家文書の安政六年(一八五九)の水害記録によると、「綿は水丈け一尺ばかり入候、畑はかなり綿取候」とあり、水田にも木綿を栽培していたことが知れる。さらにこの年鈴木家では、一〇反の白木綿を業者に売却している。

 なお、明治八年(一八七五)調査による『武蔵国郡村誌』によると、当時実綿の産出量は、見田方村が九〇〇貫、向畑村が四二〇貫、川崎村が一二〇貫、四条村が五〇貫など、主に新方地区と大相模地区の村々で生産されているので、江戸時代もこれら地域が綿栽培の中心であったろう。また綿の栽培にともない、綿を原料とする機織業も営まれ、四町野村が九一〇反、大杉村が三五〇反、大吉村が三〇〇反、川崎村が一二〇反の白木綿(木綿布)が生産されていた。