加工農産物として最も重要なものの一つに菜種がある。その油は食用油・灯用油・頭髪油として利用された。越谷地域では冬季の畑作物として栽培されたものである。平方村林西寺の元治元年の例では、九月一日(陽暦十月一日)に種蒔きをし、十一月四日(陽暦十二月二日)にうろ抜きをし、翌年四月中旬(陽暦五月中旬)ごろに収穫した。
『武蔵国郡村誌』によると、その産出高は平方村が三〇石、船渡村が三石、恩間村が五石、大道村が二石などとなっている。この菜種はすでに江戸時代からひろく栽培されていたようである。たとえば増林と増森の両村が代官所へ提出した文久二年(一八六二)から元治元年までの三ヵ年間の調査では、増林村が五七石、増森村が一二石の生産をあげている。また林西寺では安政六年に生産した菜種五石四斗二升余を代金六両二分一朱(一両につき七斗八升)で長宮村の油屋に売っている。
天明六年(一七八六)一月、幕府普請役和田繁蔵ほか一名が越ヶ谷宿に出張し、申渡しの筋があるといい、越ヶ谷宿ならびに周辺村々の絞油業者を集めた。このとき参集した越谷地域の業者には、増森村の佐平次・権右衛門、蒲生村の重三郎、瓦曾根村の源太郎、大相模(ママ)村の繁右衛門・又四郎・長兵衛、越ヶ谷宿の清兵衛・源八・長右衛門・伊右衛門・弥兵衛の計一二名であった。
絞油業とは、菜種をしぼって菜種油に加工する業者であるが、これら幕府に届けた正規の業者のほか無登録の業者も多数いたようである。このため幕府は無届けの業者を取締る旨の触をしばしば発していた。なかには、寛政六年(一七九四)の鳥見役人による農間余業調査によると、西方村ではかつぎ油絞り商いと称し、絞油の道具をにない、家々を廻って稼ぎ歩く者が記されているので零細な業者もいたようである。また西方村では、すでに安永元年(一七七二)、一軒あたり永八〇文宛の〝油絞り冥加永〟を納めた正規の業者が三名いた。