葉藍は今ではすっかり忘れられた作物になってしまっているが、茎は高さ七〇センチメートル内外、葉は狭い卵形で互生し秋に赤い小花を穂状につけるタデ科の一年草である。春種を蒔き七、八月頃開花前に刈り取って刻み藍玉の原料(染料)とした。葉藍は天然染料として江戸時代には阿波・摂津を中心としてさかんに栽培され、武蔵でもかなり栽培されていた。明治中期にドイツの化学染料が輸入されるまでは大事な加工農産物の一つであった。
越谷地域では安政四年(一八五七)正月十三日、代官林部善太左衛門役所へ提出した増林村の書上に「私共村方の義、畑方は麦作ならびに桃植付け候……其余木綿・藍等作り候ても所の弁用に引足り申さず」(越谷市史(三)五九二頁)とその栽培を記している。また登戸村関根家では、文化十一年(一八一四)九月に
一、葉藍正味八貫百五拾匁 代金壱分永百四文三文 両弐拾三貫目替
一、葉藍正味拾貫弐百匁 代金壱分弐朱永弐文八分 両弐拾七貫目替
と、葉藍合計一八貫三五〇匁を金二分二朱と永一〇七文一分で同村の定七に売却している(越谷市史(三)四二五頁)。
さらに『武蔵国郡村誌』では、神明下村が葉藍一八五六斤、四町野村が一一二五斤の生産をあげているので、越谷地域でもかなり栽培され、かつ商品化されていたことが知れる。