果実

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大林の桃林、大房の梅林と呼ばれ、大林や大房は最近まで桃や梅の名所とされていたが、越谷地域は江戸時代から大袋地区や増林地区を中心に桃や梅がさかんに栽培されていた。なかでも桃は著名であり、『徳川実紀』の編さん者成島司直は、その著『看花三記』という書物で、小金井の桜(東京都小金井市)、杉田の梅(神奈川県横浜市)とともに、越谷の桃を江戸近郊花見三ヵ所の中に数えあげている。したがって、当時の文人墨客が数多く越谷の桃の花見に訪れた。桃は当時二〇〇種以上におよぶ種類があったといわれ、花を鑑賞するためのものが多かったといわれる。しかし越谷地域で広範な畑地をつぶして栽培された桃は、おそらく観賞用でなく、果実をとるための商品作物であったであろう。

大林の桃林

 「大沢町古馬筥」によると、大沢町江沢家裏の一町歩余にわたる桃山は、文政五、六年(一八二二~二三)頃から桃木を植付けたとある。また、増林村榎本家「家譜略」によると、増林村の古利根河畔の桃林は、当時の増林村名主榎本熊蔵が天明年間(一七八一~八九)に植付けたものであるといわれるので、この頃から桃の栽培がさかんになり、文化文政期が最盛期ではなかったかと思われる。なお増林村古利根河畔の桃林は明治二十二年の水害にすべて枯死したという。

 文政八年(一八二五)六月、江戸小日向の一向宗の僧釈敬順(大浄)が、その友人池田山鼎の郷里越ヶ谷町の池田屋吉兵衛方を訪れたとき、西方村の大相模大聖寺に参詣し、二五里村(松伏領築比地村のことであるが、このときは増林村を指したとみられる)の桃林を見ているが、そのときの様子を『十方庵遊歴雑記』に載せている。これによると、二五里村は古利根川に添って一里余の間桃木だけであり、江戸伝馬町の天王祭りに出荷される桃はすべて当所の桃実であったという。普通桃実は〝草むかし〟と呼んで、苅草の中に一両日包んで色を付るのだが、当所の桃は五月下旬土地の男女一同木に階子をかけて桃木の葉をすべてとり除き、天日に曝して赤くする。それで果実の色づいた頃は花の頃より美しいとのべている。この村にとっては、桃実も大切な商品作物であったことが知れよう。

 『武蔵国郡村誌』によると、当時桃実を出荷していた村は、向畑村が二二石、大杉村が二三一貫、袋山村が二八四〇籠、大林村が二七二〇籠、小林村が五三駄となっており、古利根川河畔と元荒川河畔の川砂堆積地帯を中心に栽培されていたようである。このほか袋山村が梅実を三二〇籠出荷している。また西新井村新井(勲)家の「万覚帳」によると、柿実を千住の業者へ例年のように出荷しているので、商品価値は別として、柿の栽培もさかんであったようである。