哂業

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江戸時代、越谷地域でも木綿の栽培が広く行なわれていたのは前述した通りである。この木綿生産のうち綿作・糸とり・綿織の三工程は農家で一貫して営なまれたが、綿打と晒加工は専門の職人によって行なわれた。このうち晒加工は白木綿を一ヵ月から二ヵ月の間水にさらすものであり、関東の本場は野州真岡で、真岡木綿と呼ばれ全国的にも著名であった。

 かつて増森でも多くの家が農間晒業を営なんでいたといわれ、当地域ではもっとも晒業のさかんな村であった。この増森晒業の隆盛は、増森の地がもと古利根川の曲流地点に位置し、木綿布の晒場に適していたうえ、その水質の良さと、技法の良さで製品の優位性を保つことができたためであろう。

 増森村の小島家「家内記録帳」によると、増森村の小島家が農間晒業をはじめたのは、天保十一年(一八四〇)のことであるという。当時増森の晒業はすでに活発な動きをみせ、原料を集荷し完成品を出荷するなど、その流通はさかんであったようである。このため小島家でももっぱら晒の委託加工を行ない、農家経済の転換をはかった。

 小島家の当主は、この晒業による現金収入の目途が開けた安堵からか、天保十二年六月、西国へ旅行し、伊勢・熊野・四国の神社仏閣を八〇日間にわたって参詣して廻った。農業一筋で暮してきた農家の自給生活も、農間余業の展開でその生活様式が大きく変ってきたのである。

 この生活様式を変えた農間余業の一つ、増森晒業の現金収支を、たとえば小島家安政四年の記録でみると、当年の晒加工代金は金七七両二分三朱と銭五五文であり、この年の収支の純益は金一八両三分一朱と銭一貫二九文であったとある。その後その年によって収支純益は異なり、赤字を記録した年もあったが、慶応二年(一八六六)には晒加工代金は一二一両二朱と銭一五〇文で、この純益は金五両一分と銭四六七文、翌慶応三年度が晒加工代金一三五両三朱と銭三七八文でこの純益は金一二両一分と銭二五三文であったとある。こうした晒業は増森村のほか大沢町その他の村々でも行なわれていたようであるが、つまびらかでない。また同時に数多くの紺屋もいたようであるが、これもその実態は不明である。

大沢香取神社本殿外壁浮彫晒業の図