大蔵永常が天保十五年(一八四四)に著わした『広益国産考』によると、「醤油はすべて用いざる家なし」と述べているように、都会はもちろん、在方農村でも広く使用されていた。ただ農村の場合、多くは自家醸造の醤油を使用し、あまり市販品は購入しなかったといわれるが、西新井村新井(勲)家や、砂原村松沢家の江戸時代後期の「小遺帳」によると、かなり多量の醤油を購入しているので、市販の醤油も一般的に使用されていたようである。これら市販の醤油で著名なのは、銚子と野田の醤油であるが、当地域でも醤油の醸造、あるいは酒の醸造を行なっていた家がなかったわけではない。このうち酒の醸造では、たとえば西方村百姓勘兵衛がはやくから酒造をはじめており、安永元年(一七七二)から永七〇文の酒造冥加永を幕府に納めていた。もっとも勘兵衛家は享和元年(一八〇一)に酒造株を他村の者に譲渡し酒造を廃止している。
また醤油の醸造では、袋山村の細沼吉左衛門が天保十一年(一八四〇)からこれをはじめている。細沼家の「記録帳」によると、細沼家ではこの年金二〇〇両で醤油蔵を建て、金二〇〇両で諸道具類を揃え、醤油一二〇石を仕込んだという。この醤油醸造の冥加永は、弘化三年(一八四六)のとき永三五〇文であった。この醸造された醤油は、たとえば嘉永四年(一八五一)七月の仕切書によると醤油二樽を蒲生村藤助河岸より出しているので、江戸へも出荷されたようである。
なお、この醸造に関しては、細沼家の家訓として、(一)地廻り掛売一切致すべからざること、(二)江戸問屋殖すべからざること、(三)大豆小麦念入に申すべきこと、(四)塩の買入れ値段心掛るべきこと、(五)樽買入時節失うべからざること、等とある。