藁工品

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当地域は稲作地帯であったので、稲を収穫した後の稲藁を加工して、縄・草履・わらじ・莚・俵などを造り、はやくからこれを売って金銭に換えていた。したがって村々が領主や代官に差出す「村明細帳」には、たとえば享保十年(一七二五)の西方村「明細書上」のように、「当村男女渡世の儀、農業一通りの渡世送り申し候、あわせて朝夕は縄・俵・むしろなど仕り候」という文言がよくみかけられる。

 『武蔵国郡村誌』によると、当時藁工品の一つである莚の出荷量は、大吉村が一〇〇〇枚、向畑村が一二〇〇枚、荻島村が一五〇〇枚、後谷村が六〇駄、西新井村が一四〇駄、四町野村が三一〇〇枚、谷中村が一万二〇〇〇枚、神明下村が四五一〇枚、瓦曾根村が四八〇〇枚、西方村が七万八〇〇〇枚、麦塚村が二万七五〇〇枚、わらじでは伊原村が七万足など、稲作地域の村々はいずれも藁工品をさかんに生産している。これらの藁工品は江戸時代を通じ商品生産物として重要なものであったにちがいない。