文化年間(一八〇四~一七)江戸でたいへんよく売れた〝江戸の水〟という化粧水があった。この化粧水は箱入で発売元は江戸本町二丁目の式亭三馬である。三馬は当時の流行作家であったが、作家稼業のほか薬屋を開業していた。文化八年三月の日記に「江戸の水箱入りの箱は、百文につき一四かえ、越谷大泊村箱屋長八、江戸浅草福井町箱屋利助、右二人にたのみて数五千余も製りたりしに、新よしはら山口巴屋清次手代金蔵のしゅうと、越谷在の箱屋なりとてたのみきたるゆえ、対談決着百文につき数一六かえ、一つにつき価六文なり」とある。
すなわち三馬は化粧水〝江戸の水〟の木箱を、大泊村箱屋長八と、江戸浅草福井町箱屋利八の二人に、銭一〇〇文につき一四箇の勘定で五〇〇〇箇余りを造らせたが、越ヶ谷在の箱屋が三馬を訪れ、箱一箇の値段が銭六文、つまり銭一〇〇文につき一六箇勘定だというので、これに箱造りを頼んだという。この話によっても、当時越谷地域で小箱がさかんに製造されていたことが知れる。『武蔵国郡村誌』によると、当時小箱は、川崎村が五万箇、向畑村が七万二六〇〇箇を生産していたとある。