江戸時代から作られていた越谷地域の郷土玩具としては、張子の目なしだるまと雛人形があげられよう。
張子の目なしだるまの生産は、いつ頃からはじまったか不明であるが、木下亀抜・篠原邦彦共著『日本の郷土玩具』によると、江戸で目なしだるまが出たのは、文化年間発行の『吉原十二時』の挿絵、さらに大田南畝の『万紫十紅』に白眼のだるまを語ったくだりがみられるので、張子の目なしだるまはこの頃からのものであるという。だるまの産地は、はやくから上野・武蔵がさかんであり、ことに越谷のだるまの生産量は群馬県高崎市外豊岡につぐものであったという。
越谷だるまの発祥はこれまた不明であるが、江戸時代からの伝統をつぐものであり、その出荷先は主に川崎大師、西新井大師、柴又帝釈天などであるという。『武蔵国郡村誌』によると、当時だるまの生産は下間久里村が五万箇を出荷していたとある。
また、人形の歴史は古いが、越ヶ谷雛の発祥はそれほど古いものでない。有坂与太郎著『日本雛祭考』によると、越ヶ谷雛は安永年間(一七七二~八一)越ヶ谷町の会田安右衛門の孫佐右衛門が江戸へ上り、十軒店でその製法を修得したのち、帰郷してこれを伝えたといわれる。
越ヶ谷本町内藤家の「記録」によると、内藤家では天保十五年(一八四四)三月三日、娘の初節句祝いに、金五両一分と銭三二四文で雛三組を購入しているが、あるいは越ヶ谷雛であったかも知れない。越ヶ谷雛の最盛期は『日本雛祭考』によると明治の初年とあり、事実、明治八年調査の『武蔵国郡村誌』によると、当時越ヶ谷町の雛の生産量は、二万一三五〇箇にも達し、卸問屋が五六軒を数えたという。
このほか造り花もさかんであったとみられ、西方村文政八年(一八二五)の農間余業調査では、西方村百姓孫右衛門、同喜助、同久蔵、同所左衛門が紙作花業として記されている(七五六頁参照)。また『武蔵国郡村誌』によると、越ヶ谷町でも造花を生産していたことが記されている。