越ヶ谷六斎市

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前節でみてきたように、自給的農村にも、商品作物や加工生産が活発に展開されてくると、これら生産物を扱かう商人などによって物資の流通機構が整備されてくる。その流通機構の一つに越ヶ谷市(いち)がある。

 延文六年(一三六一)に書かれたという市場祭文(『武州文書』所収)には、岩槻ふじ宿、くぼ宿、末田、八十(条カ)、吉世の市の河、花和田、彦名など越谷近辺の元荒川・中川沿いに、数多くの市のあったことが記録されているが、越ヶ谷の名はない。では越ヶ谷にはいつから市が開設されたのであろうか。

 『新編武蔵風土記稿』によると、越ヶ谷市が六斎市(月に六度の市)になったのは、文禄年間(一五九二~九六)であると記されている。しかし越ヶ谷町の地誌「越ヶ谷瓜の蔓」などによれば、越ヶ谷市が幕府から認可されたのはおよそ元和・寛永の頃(一六一五~四四)と記し、市場の守り神である市神社が四町野村から現在の地に移されて勧請されたのは寛永年間であるという。そして市場の割元役は越ヶ谷会田出羽家の一族会田権四郎であったとあるので、市のくわしい発祥年限はここでは明らかにできない。いずれにせよ市は、はじめ物々交換による取引が主であったとみられるが、商品作物や加工生産の広汎な展開により、市場は重要な交易の場になった。

 天保九年(一八三八)の七左衛門村明細帳には「市場御座なく候、但し、市立の儀は越ヶ谷宿にて諸向調え申し候」とあり、越ヶ谷宿の市が七左衛門村など、近在の農民に各地の商品を購入する機会を与えていたことを示している。事実、蒲生村大熊家は、〆粕・飴粕・羽粕といった肥料や、塩などの生活必需品を越ヶ谷宿から購入していた。

 他方、元文二年(一七三七)の藤塚村(現春日部市)差出帳には「大麦・大豆・小豆江戸へ出し売り申し候、時節により越ヶ谷町市場にて売り申す義も御座候」と記し、近在の農民が越ヶ谷の市をめざして、農産物を出荷していたことを裏づけている。こうして市は各地の商品をその近在の農民にもたらすとともに、近在の農村から江戸向の商品を集荷する機能を果たしていた。

 このように、市場の機能は物資の交易にあったが、同時に、生産物のそのときそのときの値段を定める相場がここでたてられたということも重要である。越ヶ谷ならびにその周辺の六斎市をみると、岩槻が一と六の日、越ヶ谷が二と七の日、鳩ヶ谷が三と八の日、粕壁が四と九の日、草加が五と十の日であり、それぞれの市日が重ならないような仕組になっている。周辺の地で同じ日に相場が立ち、おのおの異なった相場がつけられては、混乱が生じる恐れがあったためであろう。つまりこれらの市を含めた範囲が一つの商圏を形成しており、毎日どこかで農産物の相場が立てられ、各商家はこの値段にもとずいて取引を行なっていたのであろう。

 この市場で取引が行なわれ相場が立てられた商品は、越ヶ谷本町内藤家の「記録」によると、玄米・玄餅・搗麦・から麦・小麦・大豆・小豆・ひえ・もろこし・えんどう・そら豆・そば・ごま・菜種・水油などの農産物である。当時、農家の生産物のおよそがすでに商品作物に転化していたのである。

 このうち米の相場だけを抽出したのが第10表である。これによると越ヶ谷市(いち)は、二日、七日、十二日、十七日、二十二日、二十七日、つまり二、七の六斎市であり、この日に米や麦などの相場がたてられていたことが知れる。

第10表 越ヶ谷市米相場表(2,7市日相場)
月日 種類 相場 月日 種類 相場
天保4年(夏平均) 8斗7升~8斗8升 8月22日 新米 4斗4升~4斗5升
8月2日 5斗8升~5斗9升 9月2日 古米 3斗5升~3斗8升
12月27日 5斗1升~5斗2升 〃   新米 4斗5升~4斗9升
天保5年 9月7日 古米 3斗9升~4斗2,3升
1月7日 4斗8升5合 〃   新米 4斗6升~5斗
1月12日 5斗1升5合 9月12日 古米 3斗8升~3斗9升
1月22日 5斗5升~5斗6升 〃   新米 4斗5升~4斗8升
2月2日 5斗6升~6斗 10月7日 4斗7升
2月12日 5斗2升~5斗3升 10月17日 5斗
5月27日 3斗9升~4斗 11月12日 5斗2升~5斗3升
6月7日 3斗4升~3斗5,6升 11月27日 5斗2升
6月12日 3斗8升5合 12月2日 5斗1升
8月平均 6斗8升 12月7日 5斗2升~5斗4,5升
9月平均 古米 6斗4升3合 12月12日 5斗4升
〃   新米 7斗4升3合 12月22日 5斗5升~5斗6升
10月平均 7斗2升7合 天保9年
11月平均 7斗7升7合 1月27日 5斗2升
天保7年 2月7日 4斗8升
7月22日 3斗4升 2月12日 5斗
10月2日 3斗2升5合 5月7日 6斗1升~6斗2升
天保8年 5月22日 6斗
1月22日 2斗8升~3斗 5月27日 6斗1升~6斗2升
1月27日 2斗7升5合 6月2日 5斗5升~5斗8升
2月平均 2斗5升 6月7日 5斗5升
3月1日 2斗3升5合 6月17日 5斗2升
3月17日 1斗9升~2斗1,2升 6月27日 4斗8升
3月27日 2斗5合~2斗2升 7月7日 4斗6升
4月2日 2斗1升~2斗2升5合 7月12日 4斗4升
4月17日 2斗5升~2斗9升 7月17日 4斗5升
5月2日 2斗3升~2斗4升 8月平均 4斗4升~4斗5升
5月22日 2斗3升 〃   新米 5斗1升
5月27日 2斗3升~2斗4升 9月7日 新米 4斗5升
6月12日 2斗8升 9月12日 古米 4斗2升
7月7日 2斗5升~3斗 〃   新米 4斗4升
7月12日 2斗8升~3斗4升 9月17日 4斗2升5合
7月27日 2斗7升5合 10月2日 4斗3升
〃   新米 3斗3升 11月2日 4斗2升
8月2日 4斗~4斗5,6升 11月7日 4斗6升
8月7日 古米 4斗5,6升~5斗 11月12日 4斗5升
〃   新米 4斗9升 12月平均 4斗5升~4斗6升
8月17日 古米 3斗6,7升~4斗 天保10年
〃   新米 3斗9升~4斗 1月12日 4斗9升
8月22日 古米 4斗 1月22日 5斗6升~5斗7升

(但シ1両ニ付)

 この内藤家の米価記録は、天保四年の飢饉から幕末維新にかけて、ことに物価の変動のはげしい際に記されたものである。この例をみると、天保四年夏の米の平均相場が金一両につき八斗七、八升のところ、同年十二月には五斗一升、翌天保五年六月の端境期には三斗四、五升に高騰している。さらに天保七年から同八年にかけては、三斗から二斗、二斗から一斗台に高騰し当時の異状な飢饉状態がうかがえられる。それが同年の端境期を過ると、四斗から五斗にもち直し、天保九年にやや落着をみせる。こうして天保十一年から同十五年にかけては、八斗、九斗あるいは一石を越えるときもある比較的平準な相場が持続されたが、弘化二年から再び高騰に転じ、四斗から五斗を記録する。そして幕末にかけては三斗から二斗と、天保七年から八年にかけての飢饉当時と同じ相場に落込むが、ことに慶応三年には金一両につき一斗、さらには一斗を割る高値を示し、異状な狂乱物価であったことが知れる。

 いずれにせよ越谷地域の多くの村は、米や麦などの農産物を、越ヶ谷市に出荷してこれを金銭にかえていたが、距離の近い市場を求め、たとえば平方村・船渡村などのように粕壁市へ、後谷村・越巻村などのように鳩ヶ谷市へ、蒲生村・伊原村などのように草加市へ、野島村・小曾川村などのように岩槻市へこれを出荷する農民もあった。なかには四条村・千疋村などのように、吉川市(一・六日六斎市)との交易を求めていたところもあった。そして農民たちは、これら周辺の市日の違いや相場の違いを巧みに利用しながら、生産物を売却していた。

 たとえば下赤岩村(現北葛飾郡松伏町)の染谷伊右衛門は、天保八年(一八三七)二月に、三つ堀村(現千葉県野田市)の権兵衛に一両につき二斗替で米二五俵を、三月二十一日に吉川の仁右衛門に一斗九升替で米三五俵を、さらに同月二十七日には越ヶ谷宿の紫屋万平に二斗二升替で米三五俵を売却している(高梨輝憲翻刻『飢饉噺聞書類集』)。