武州越ヶ谷米

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町方や村方の米穀商人によって集められた米は地廻り米として、当時最も輸送に便利であった水運によって、江戸の浅草・神田・本所・深川などに運ばれた。船積みには瓦曾根河岸(元荒川)、吉川河岸(中川)、蒲生村の藤助河岸(綾瀬川)などが使われ、江戸の地廻り米穀問屋や関東米穀三組問屋に荷受された。

 吉川の米穀商人たちは仲間をつくって一〇艘余の運送荷船を差配し、その一人である半次郎の江戸出し商いは日々白米一〇俵余であったという。

 文久二年(一八六二)ごろの全国から江戸への供給米の一ヵ年平均は、総計二一一万俵であるが、そのうちの約半分にあたる一〇五万俵は関東の地廻り米であり、地廻り米の中では武州米が約二八万俵と四分の一をしめ、最も多かった。

 ところで、越ヶ谷地方の米は江戸市場でどの程度に評価されていたのであろうか。米の品質は地味や気候によっていろいろに分かれ、優劣がつけられたが、当時は産地の名称が米の品位を決定する手段として利用された。武州米は全国的にみれば上米に位置づけられているが、この武州米もさらに産地により、細かく分けられている。

 幕末のものと思われる一例をあげると、全国産米を二四等級に格付けしたうち、武州越ヶ谷米・松伏米・二郷半米・淵江米・葛西米などが三等級に、八条領米・新方米・岩槻米・赤山米・足立米・谷古田米・忍米・久喜米などは四等級として位置づけられていた(鈴木直二『江戸における米取引の研究』)。

 また、向山誠斎の著わした『甲辰雑記』に、「江戸御廻米国々」として、武蔵国をはじめ三六ヵ国の名があげられている。このうち武蔵国については三六の地域、下総国については一三の地域が産地とされている。これらの地域の産米が、いかなる格付けをされているかについてみてみると、上の分として美濃と三河両国の米があげられ、中の分として武蔵国・駿河国・遠江国の米があげられている。さらに、武蔵三六ヵ所のうちでもとくに選ばれた地域が一六ヵ所あるが、このなかに八条領・越ヶ谷領・新方領・二郷半領・松伏領など埼玉東部低湿地帯の各領が、良質の産米地域として名をつらねている。

 農民が年貢米を納めたあとの余剰米を、商品として出荷するようになったのは比較的早い時期であったとみられる。足立郡南部領高畑村若谷家文書によると、延享三年(一七四六)十月、越ヶ谷町の平三郎が、高畑村の甚之丞から米一七五俵を金七四両で買取っている。この石高は七〇石であるので一石につき約金一両の勘定である。ところが甚之丞はこのうち一三〇俵を俵拵えの出来あがる同年十二月に渡す約束で代金を受取ったが、期限がきても米を出荷しなかったので、平三郎はこれを奉行所に訴えでた。平三郎はおそらく越ヶ谷町の米穀商人であったろう。

 また砂原村松沢家文書によると、安永二年(一七七三)砂原村の百姓六左衛門が、米六五俵を金一九両三分余で売却している。このほか幕末の例としては、登戸村の関根家が天保十四年(一八四三)三月、蒲生村の清左衛門に米二三五俵三斗(四斗入)を一両に付九斗二升の相場で売っている。この代金は一〇二両二分であった。

 このように米穀を商品として売るのが一般的になったので、米穀を扱う商人も市場町を中心に数多く発生した。