御膳細餅

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当地域の特産物としては、越谷米と世に称された粳米のほかに、良質の糯米(餅米)がある。これを太郎兵衛糯という。越ヶ谷出身の江戸時代の俳人越谷吾山が、その著『俳諧翌檜』のなかに、越谷地方の特産物として〝糯米〟をあげているとおり、これは江戸市場で高く評価されていた。事実、弘化二年(一八四五)の「地名米穀位覚」によると、上中下に格付けした糯米では、越ヶ谷(太郎兵衛糯)をはじめ粕壁、葛西、忍などが上の部に位置づけられていた(鈴木直二『江戸における米取引の研究』)。砂原村松沢家や、西新井村新井(勲)家の「万覚帳」によると、粳米の売却とともに、糯米の売却がきわめて多い。価格は粳米と大きな差はないが、多量に栽培されていたようである。

 この糯米のなかでも〝御膳細餅〟と呼ばれた細糯米は、ことに良質なもので、例年江戸城に納入され将軍の食用に供された。瓦曾根村中村家文書によると、瓦曾根村名主中村彦左衛門は、明和八年(一七七一)十一月、江戸城に納める御膳細餅の御用取扱いに任ぜられ、天明四年(一七八四)閏正月、御用精勤により、勘定奉行石谷備後守の申渡しで、苗字帯刀御免の身分を許された。ついで寛政十二年(一八〇〇)幕府から五人扶持を与えられ、その子もまたこの身分を受継ぎ御膳細餅の御用取扱いを勤めた。

 また、西方村「旧記弐」によると、西方村の年貢のうち、細餅買納代永が高掛物として、寛延二年(一七四九)から賦課されているが、あるいは糯米が当時すでに広く栽培され、商品としてさかんに流通していたための賦課税であったかも知れない。