肥料の流通

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砂原村松沢家天保六年(一八三五)の「万覚帳」によると、当時松沢家が田畑にほどこした肥料には、堆肥・そら豆・焼もろこし・大豆・飴粕・〆粕・干鰯・下肥がある。このうちそら豆・焼もろこし・大豆は自給で生産されるが、飴粕・〆粕・干鰯は金銭で購入しなければならない。当地域でこれら金肥を使用しはじめた年限は、史料的に明らかにできないが、蔬菜や米が商品化されるとともに、比較的はやくからこれが用いられていたことが推定できる。

 ことに当地域は山林や原野が少なかったので、肥料として有効な堆肥づくりが容易でなかった事情があり、田畔の草刈りにもきびしい規制が設けられていた。たとえば七左衛門村文化十四年(一八一七)の村議定には、草刈りは畔境の半分を刈りとり、他人の地所の草は刈らない、とある。また西新井村天保六年(一八三五)の村議定には、地尻刈りの申合せを守り、これに違反した者は、過怠銭五〇〇文を徴収する。田畔は馬道(農道)のほか通行しない。鎌などを持って田畔を通行する者は、みつけ次第これを咎める、などと申合せている。刈敷がいかに大切なものであったかが知れるが、田畔などの草から十分な堆肥を調達できたとは思えない。したがって金肥の流通に伴ない、その多くはこれに頼るほかなかったであろう。

 砂原村松沢家では、天保六年に〆粕を金六両三分二朱余で九俵購入している。同じく砂原村六左衛門家では、安永四年(一七七五)に金三両二分の肥料を購入している。また七左衛門村下組の井出家では、安政三年(一八五六)に〆粕を金一五両一分で二四俵を購入している。購入先は八条領二丁目村の四郎左衛門であるが、越ヶ谷町の茶碗屋忠蔵などから飴粕なども多量に購入している。これらの金肥がすべて自家用に使われたかは不明であるが、時代が下るにつれ、金肥は一般的にさかんに使用されていたようである。それとともに、越ヶ谷宿のみならず村方にも多数の肥料商人が輩出した。

 先述のごとく、幕末期に蒲生村大熊家は、下肥・〆粕・飴粕その他の肥料を大量に購入していた。いま、大熊家と取引のあった肥料商人を、安政五年から慶応四年までの一一年間に限ってみると第11表の通りである。この商人たちを地域的にみると、大熊家の地元の蒲生村をはじめ金右衛門新田などの村方商人と、越ヶ谷宿や草加宿の町方商人とに分けられる。前者は綾瀬川とそれに連なる水上交通路で結ばれた地域の、いわば河岸場商人であり、後者は日光街道の宿場町商人である。

第11表 蒲生村大熊家の肥料購入先商人(「籾種及肥料扣帳」より作成)
村方商人 商品
金右衛門新田日野屋条蔵 〆粕
新兵衛新田干鰯屋 はぼしか
浮塚村長蔵 下肥
花又村清三郎 下肥
葛西一之江村源蔵 下肥
蒲生村上茶屋豊島屋安兵衛 〆粕・水油粕
   下茶屋山辰文右衛門 下肥
    〃 文吉 下肥
    〃 たち屋文五郎 下肥
   中島屋重蔵・半七・文治郎 飴粕・〆粕
    〃 藤助 〆粕
    〃下の屋定七 下肥
   中島三河屋治兵衛 大豆
    〃紺屋治助 〆粕
   前源右衛門 下肥
   同組 孫助・茂左衛門・庄吉 下肥
   道沼長吉 大豆
   道沼伝蔵・藤五郎 〆粕・正中粕
     綿屋久右衛門 白麦
越ヶ谷本町伊勢屋幸治郎 〆粕
   〃 田中屋熊治郎 〆粕
   〃 加賀屋万治郎 今むきみ・から麦
   〃 新見せや干粕や 〆粕
   中町為替屋 〆粕
   〃 丸屋幸治郎 〆粕
  新町飴屋平四郎 飴粕
   〃 油町(長) 羽干粕
   〃 大野屋新左衛門・新八 〆粕
   〃 たちや藤兵衛 〆粕・羽粕・なからみ
   〃 釘屋庄治郎・庄七 〆粕
   〃 大之津宗吉 〆粕
   〃 たか間仁兵衛 から麦・大豆
   〃 八百屋丑五郎・八百屋武兵衛 水油粕・大豆・白麦
   〃 角屋久三郎 羽粕・下肥
草加宿1丁目野島屋 するめ粕
   6丁目魚屋惣吉 羽粕

 さらに大熊家の購入状況を、肥料の種類別にみると、下肥は江戸との水運に便利な綾瀬川沿いの村方(河岸場)商人から購入し、〆粕類は主として、当地域の商品流通市場の中心地である越ヶ谷宿の商人から購入していた。しかし〆粕類を取扱う肥料商は、近世後期になると越ヶ谷宿以外の村方にも多数輩出するようになった。事実、大熊家でも自村蒲生村の五軒の肥料商より〆粕を購入している。その結果、流通の独占を維持しようとする越ヶ谷宿の肥料商人と、周辺村方の新興の肥料商人との対立が、後述するようにしばしば起るようになった。