金肥には、飴粕・醤油粕そのほか幾通りもの種類があったが、もっとも代表的な肥料は、鰯を原料とした〆粕や干鰯(ほしか)であった。干鰯は鰯を天日で乾燥させたものであり、〆粕は鰯を煮込み、搾り器で油をとった粕を乾燥させたものである。この干鰯と〆粕の主産地は、関東では九十九里浜であり、これら干鰯は主に江戸の深川江川町などの問屋によって扱われたが、この江戸三組の干鰯問屋が問屋役金を上納し、幕府の公認をえたのは元禄十年(一六九七)であったという。当地域の干鰯や〆粕も、おそらく江戸干鰯問屋からの流通であったろう。しかし時代が下ると、房総の産地の浜方商人が直接消費地に出向き、取引をはじめて市場を混乱させることがあった。
天保六年(一八三五)十月、越ヶ谷町の重次郎・弁蔵・佐兵衛・仁兵衛・藤兵衛・武兵衛、四町野村の伊右衛門、大沢町の次郎兵衛、この八名の干鰯商人が、産地業者による直接の干鰯売買を禁止するよう支配役所に訴願した。これによると、前記八名の者は、古来より〆粕や干鰯を引受け、問屋同様の稼業を続けてきた。ところが近来上総・下総の産地浜方商人が干鰯を持込み、在方の農民と直接に取引をしはじめた。在方の者はまたこの干鰯を宿内で勝手に売さばくので、干鰯商人が年毎にふえ、せり売せり買などで市場が混乱している。いままでも宿場役人からたびたび規制してもらってきたが不十分であり、このままでは正路に商売している者は立行かないので、生産地業者からの直接売買を禁じるとともに、前記八名の者に〆粕と干鰯の商いを一手にまかせるようにしてもらいたい。そうすれば宿内商人の取締りもよくなるし、在方の者の売買も猥りにならないですむ。もちろん前記八名の者は、干鰯の一手販売を認めてもらう代りに、相当の冥加永を幕府へ上納するであろう、と述べている(越谷市史(三)四二九頁)。
金肥のなかでも、当時干鰯や〆粕の需要がさかんであったため、越ヶ谷町の旧来の干鰯商人のみならず、各村々に多数の干鰯商人が輩出したことが知れる。この願書を提出した八名の宿方商人は、幕府の商家調査に登録し公認された、いわば旧来からの特権化した干鰯商人である。かれらはその利益を守るために、かれら以外の者が新たに商人化するのを規制しようとしたわけであるが、それを無視して直接産地からやってきて直売りする浜方商人や、それに呼応する在方商人が台頭してきた。そして既成の流通組織を破って、新たな非特権的な零細な商人が活躍できるほどに、農民的商品生産が高まり、肥料の需要が増大していたのである。