下肥

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下肥は、はじめ自給でまかなっていたようであるが、野菜などの商品化にともない、その生産を増大するため大量の下肥が使用されるようになった。さらに下肥は、畑ばかりでなく水田にも用いられており、砂原村松沢家文書によると、自家飯米用の水田へ主に施肥している。

 この下肥の供給地はもっぱら江戸であった。約百万人もの人口を擁した大都市江戸にとって、人びとの排泄物をいかに処理するかは大きな社会問題であったはずであるが、それは周辺農村部の肥料(下肥)として商品化され、みごとに解決されていた。江戸の周辺農村は、この大量に供給される下肥を用いて栽培した新鮮な蔬菜類や米殻類を、江戸市民に供給するという形で、江戸と周辺農村の間には巧みな一つの循環が行なわれていたのである。

 江戸の下肥を肥料として使用することは、近世中期にあっては江戸西郊の畑作地帯でさかんであったが、馬付、徒歩(担ぎ)、小車といった小量の運搬手段のためか、後期になると、葛西船と総称される舟運で大量輸送ができる武蔵東部の水田農村地帯に、その中心が移った。

 江戸川・中川・古利根川・元荒川・綾瀬川・毛長川といった武蔵東部の河川の河岸場には、それぞれ下肥商人がおり、江戸の下肥を農村に販売していた。越谷地域でもたとえば大林村の瀬尾家では、万延元年(一八六〇)に松伏河岸の喜左衛門から下肥二艘と一六荷を金三両一分二朱(船一艘分の単価は金一両二分)で購入している例がみられる。また先述の蒲生村大熊家では、自村内綾瀬川の下茶屋河岸の文右衛門・文五郎・定七といった在地商人や、江戸に近い下流の浮塚村(現埼玉県八潮市)の長蔵、花又村(現東京都足立区)の清三郎、葛西一之江村(現東京都江戸川区)の源蔵など、かなり広範囲な下肥商人に手配して必要量を確保していた。

 周辺農村の商品生産の展開にともなう下肥の需要の増大は、下肥価格の騰貴や不正取引を生ぜしめた。もともと下肥価格は、季節的には田方(稲作)や麦作の仕付期に高値となる傾向にあったが、幕末期にはとくに異常な高値となった(第12表参照)。さらに、水を入れて薄めた下肥を売るなどの、不正な商人もあらわれるようになった。

第12表 蒲生村大熊家購入の下肥価格(「籾種及肥料扣帳」より作成)
購入年月日 船数(荷数) 金額 購入先
安政6.9.9 1艘 1両1分3朱 浮塚村長蔵
〃 7.3.20 1艘(66) 1両2分2朱 浮塚村長蔵
文久2.11.6 半艘 3分渡32文つり 蒲生村下のや定七
元治元.7.29 1艘 1両3分2朱 葛西一之江村源蔵
慶応元.7.8 1艘4分1(75) 2両2分1朱ト100文 花又村清三郎
〃 2. 1艘4分(76) 4両2分ト200文 蒲生村安右衛門外四名
明治2.11.26 1艘(62) 5両3朱ト250文 蒲生村下茶屋文右衛門
〃 3.3.15 1艘 5両3分2朱 蒲生村下茶屋文右衛門
〃 4.2.晦 1艘 5両1分
〃 8.1.9 1艘 5両2朱ト800文 蒲生村下茶屋文右衛門

 このため、弘化二年(一八四五)に、下総国小金領流山村・加村、武蔵国葛飾郡二郷半領三輪野江村・茂田井村・丹後村など、江戸近郊地域村々が結束し、良質な下肥の供給とともに、値段を一割方引下げる議定を結び、商人らによる価格操作をおさえようとしたこともあった。しかしこれらの運動はあまり効果がなかったようであり、その後、東方村中村家文書によると、幕府は慶応三年(一八六七)五月、不正の下肥商人をきびしく取締る触書を出している。

 この取締り触書によると、下肥商人は船一艘分を四斗入五〇荷と定めて売買しているが、近頃は二、三〇荷の下肥を運送中の船中で水を薄め五〇荷にふやしている。しかも四〇荷を一艘分の代金で売り、残り一〇荷分を四分の一などと唱えて増金をとっている。このように薄められた下肥は肥料としての効力がなく、農業の障りになっているので、今後不正の下肥を売った者は召捕えるとある。この下肥取締りの幕府通達に対し、東・西葛西領、二郷半領、渕江領、八条領の各寄場組合役人と、下肥渡世人一同は、関東取締出役に連印請書を提出し、正路の商いをなし、また不正商人の摘発を行なう旨の議定書を取結んだ(越谷市史(三)四四九頁)。そのおもな内容はつぎのようなものであった。

(一) 江戸に掃除場のない者の肥渡世を禁止すること。

(二) 船乗・肥商人で心得違いの下肥売捌をした者は差し押え、厳重取りはからうこと。

(三) 船頭共が通船途中において水を加えているのをみたら取り押え、厳重取りはからうこと。

(四) 寄場役人大小惣代・道案内のものはいつも見廻りをして取り締ること。

(五) 掃除場所をせり合い、増金をするので下肥値段が騰貴するのだから、せり増をしないこと。

(六) 東西葛西領・二郷半領・渕江領・八条領の肥船所持者、荒川・綾瀬川・江戸川通りの村々の肥商人へ判取帳を渡しておき、売買のたびごとに記入、毎年正月と六月に改めて不正のないようにする。判取帳のないものとは決して売買しないこと。