舟運

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関東地方には利根川をはじめ多数の河川が流れ、はやくから水運がひらけていたようである。北条氏照が布施美作守にあてた永禄・元亀年間(一五五八~七〇)と推定される書状に、葛飾郡八甫(現幸手町)までのぼる「商船卅艘に及ぶの由云々」(『新編武蔵風土記稿』)と記されているので、利根川の舟運は当時から活溌であったことが知れる。

 ことに江戸幕府による利根川の東遷改修によって、その流路が太平洋に直結したため、常陸・下総ならびに東北地方と江戸との舟路が開け、江戸へ輸送する物資の舟運が急速に発達した。それにつれ、幕府の貢租米、諸侯の藩米、旗本の知行米はその多くが江戸へ廻送されたので、そのための河岸場が数多く設けられた。『徳川禁令考』によると、すでに元禄三年(一六九〇)の関東諸河川の河岸場は、武蔵・上野・下総・常陸の利根川通りで四五ヵ所、烏川通りで三ヵ所、渡良瀬川通りで四ヵ所、鬼怒川通りで一五ヵ所、荒川通りで六ヵ所、江戸川通りで四ヵ所など、計八四ヵ所を数え、このほか禁令考に記されてない河岸場を合せると、当時百数十ヵ所の河岸場があったといわれる。なかでも鬼怒川通り阿久津河岸、烏川通り倉賀野河岸、渡良瀬川通り乙女河岸、利根川通り一本木・山王堂・中瀬・木下などの諸河岸が著名な河岸場であった。

 舟運の主なものは、はじめ貢租米の廻送であり、たとえば東北地方の大平洋岸からの廻米は、その多くが銚子で一度陸上げされ、高瀬船に積みかえられて利根川を遡行した。そして関宿から江戸川を下り、行徳を経て江戸へ廻送される順路をとった。この米の廻送に用いられた高瀬船は、『江戸川図会』によると、「高瀬船は米五、六百俵を積む、その大なるは八、九百俵を積み舟人六人を以てす」とある。

 しかし関東地方でも商品生産が一般的になると、麻・生糸・蝋・煙草・茶など国々の特産物が商人荷物としてさかんに船で江戸へ運ばれ、また江戸からは砂糖・塩・醤油・呉服などの日用品が国々へ運ばれた。すでにはやく明暦元年(一六五五)、日光道中千住・栗橋間七ヵ宿の高役免除願書に、奥州筋からくる商人荷物は以前と異なり、古河その他、方々の新河岸から船で江戸へ送られるので、道中宿場の駄賃荷が少なくなり困窮しているとあり、商人荷物をめぐっての舟運と陸運との競合さえ指摘できるのである。

 しかも時代が下るにしたがって、これら河岸場のなかには、商人荷物のみならず、旅客船を仕立てて旅びとを江戸へ運ぶ河岸場もあらわれた。旅客を奪われた道中宿場では宿場疲弊の原因であるとこれに抗議し、しばしば幕府に善処方を要請していた。

 文政四年(一八二一)日光道中千住・栗橋間七ヵ宿が、道中取締役人へ提出した訴状によると、

 「日光道中栗橋宿以南の宿々は、近年往来の旅びとが年々少なくなり、旅籠屋・水茶屋そのほか商売の利益が薄くなった。この原因は、奥州筋から江戸へのぼる旅びとは、いずれも鬼怒川通り野州阿久津河岸から船に乗り、一たん久保田河岸で船を下りると陸路六里、さらに下総国境河岸から再び船に乗って江戸へ入る。ことに関宿河岸では古河宿から三里の脇往遷をつくり、奥州筋の旅びとはもとより近郷近在の旅びとを河岸に導いて昼夜の別なく乗船させている。したがって当道中筋は追々御武家様のほか通行する旅びとはいなくなった。そこで寛政三年(一七九一)にこれを幕府に訴えたところ、道中取締役人によって阿久津河岸の船問屋どもが取調べられた。このときは、根岸肥前守役所から、旅びとの船利用を禁ぜられ、これに違反したときは船を没収すると申渡されている。ところがその後も旅びとの舟運をやめようとしない。ことに関宿河岸は日光道の脇道にありながら、道中筋の水茶屋等へ便船の値段表を廻して旅客を手引きさせていた。そこで文化七年(一八一〇)にも柳生主膳正役所へこの実状を訴えて、両河岸問屋の取締りを願ったが、このときは荷物の船下げには上乗の者二、三人を限り乗船させ、その他の者は陸路通行させる。旅びとの客引は一切やらないというので示談内済とした。しかるに近頃は、前記三河岸場はもちろん、権現堂河岸や古河宿裏通り村々、さらに栗橋宿裏通り村々からもひそかに旅びとを乗船させさかんに客を運んでいる。このような状態なので、道中宿場を利用する旅びとは、寛政年間にくらべるとその数は半分であり、安永年間(一七七二~八〇)にくらべると三分の一にも減っている。このままだと宿々衰微に及んでしまう。」

とこれを訴えている。宿場の立場からするこの訴状の内容を、そのまま信ずるわけにはいかないが、舟運の利用がいかにさかんであったかを察することはできよう。