元荒川は末田・須賀溜井と瓦曾根溜井によって川の流れが堰止められていたので、上流から下ってきた船荷はこの溜井で積替えなければならない不便があった。このため元荒川通りの河岸場は数少なかったようであるが、瓦曾根溜井の下流は江戸まで堰止めがなかったので、瓦曾根溜井に設けられた瓦曾根河岸は、はやくから元荒川舟運の代表的な河岸場であった。
明治八年調査による『武蔵国郡村誌』によると、当河岸場には当時一〇〇石積高瀬船四艘、八〇石積似〓船四艘、二〇石積伝馬船一般、川下小船一三艘を備えていた。また明治十六年の書上によると、越ヶ谷町の大橋際に、伝馬船を備えた河岸場があり、年間に米麦九〇〇俵、薪一〇〇〇束を輸送していたとあるので、当所にもはやくから河岸場が設けられていたとみられる。
瓦曾根河岸は、末田・須賀堰下流の荷船と、古利根川を下り松伏溜井から逆川を経て瓦曾根溜井にいたる荷船とが、荷を積替える河岸場であった。積替えの場所は松土手と称された溜井の中堤であり、当所に荷を納める倉庫が設けられていた。瓦曾根河岸から江戸までの行程は、葛西領亀有の中川通りを経て九里余、主に越ヶ谷宿の売荷運送を扱っていたが、忍藩柿ノ木領八ヵ村の貢租米の江戸廻送を請負うなど、近郷村々の年貢米の輸送にも利用された。
この瓦曾根河岸はそのはじめ、松土手の河岸場敷地が西方村の領分であったので西方河岸とよばれていた。西方村「旧記参」によると、この松土手船問屋の敷地七畝一五歩は、はじめ西方村の仁右衛門が畑地に名請した地所であったが、瓦曾根村公儀鳥見役中村藤右衛門がこれを買請けて所持した。その後藤右衛門は幕府のお咎めを蒙り欠所を申渡されて、藤右衛門所持の河岸畑は西方村に戻された。この藤右衛門には、おかちという娘がおり、紀伊家屋敷に奉公中に針治医師の妻になり、当時は江戸青山権田原町に住んでいた。おかちは藤右衛門の欠所により、実家の名跡が失われるのを嘆き、父藤右衛門が瓦曾根村に所持した高一〇石余の耕地屋敷と、西方村松土手の河岸畑を、おかちの妹である長右衛門新田多七の妻とともに買戻し、これを文治郎という名儀にした。藤右衛門名跡をつがなかったのは、藤右衛門が幕府からお咎めにあったのでこれを憚かったのだという。時に享保八年(一七二三)のことである
こうして父の名跡を買戻したおかちは、七畝一五歩の河岸畑を瓦曾根村の中村新六に差配させた。河岸畑の差配に任ぜられた新六は、河岸賃を取立てるとともに、河岸畑に課せられた畑方年貢と、河岸場役料合せて金一分を西方村に毎年納入することになった。当時すでにこの河岸畑は、河岸場として使用されていたのである。そして河岸場からあがる河岸賃の収益は、おかちの相続人寿泰と、長右衛門新田の多七、それに河岸場差配人新六の三人で三等分されることに定められた。
その後安永二年(一七七三)瓦曾根村が西方河岸近くの瓦曾根敷地に、〝上の河岸〟と名付けて新たに河岸場を開設したが、新六はこれに抗議し瓦曾根村と訴訟になった。このときの訴訟費用は、江戸の寿泰や長右衛門新田の多七が協力しなかったため、新六のみの負担で訴訟が続けられた。この間西方河岸は、安永三年幕府の運上金賦課の対象となり、河岸場船問屋運上金永六一八文が課せられた。
新六と瓦曾根村の河岸場争論は、数年にわたって続けられたが、結局示談が成立し内済となった。示談の内容は、〝下河岸〟を称する西方河岸と、〝上河岸〟を称する瓦曾根河岸を一つに合同させ、同一の差配人によって運営する。河岸場の収益金は瓦曾根村が六割、新六方が四割の率で配当する。ただし安永三年から賦課された西方河岸船問屋運上金とその納付の入用金合せて永八六八文、ならびに河岸場役金一分は、いままでどおり新六方が西方村へ納入するというとりきめであった。
また、長右衛門新田の多七と江戸の寿泰は、西方河岸からあがる収益配当の権利を新六に譲ったので、新議定による瓦曾根河岸場収益四割の配当金はすべて新六が受取ることになった。
一方河岸畑を含めた文治郎の名跡は、中村藤右衛門の縁者、江戸市ヶ谷居住の弥右衛門がこれを継いで瓦曾根村に移り住んだが、独身の弥右衛門の介抱にあたった奉公人半助の実直な人柄が認められ、弥右衛門の死後も半助が地守を続けた。その後半助の子七之助が、寿泰の嫁の実家、瓦曾根村五郎右衛門の娘を娶り、五郎右衛門の家名を継いで中屋五郎右衛門と称したが、文治郎の跡式をも同時に継ぐことになった。つまり西方河岸の差配人は中村新六であったが、河岸畑の所持者は当時中屋五郎右衛門であった。なお五郎右衛門は往還通りに家を建てて茶屋稼ぎをするかたわら、瓦曾根溜井見廻り役を勤めたという。