古利根川の舟運

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古利根川は、埼玉郡北部の悪水落しと同時に葛西用水路に利用されたので、三月から十月頃までは通船の便があり、各所に船荷を扱かう河岸場が設けられていた。古利根川通りの主な河岸場を挙げると、杉戸・粕壁・松伏・吉川・木売・彦成などあるが、このうち粕壁河岸は、明治八年調査による『武蔵国郡村誌』によると、当時八〇石積荷船三般、四〇石積荷船四艘を備えており、明治二十三年の調査では年間に岩石類一万六〇〇〇貫、〆粕五〇〇俵、米麦二万五〇〇俵、そのほか小豆・味噌・醤油などを扱っていたという。

 また松伏河岸は通称民部河岸とも称せられ、『武蔵国郡村誌』では当時一〇〇石積荷船八艘、小船五五艘を備えており、明治二十三年の調査では、年間に穀類俵物三九〇五俵、醤油九三二三樽、そのほか油・塩・雑貨などを扱っていた。民部河岸の対岸にある増林村にも八九坪五合の敷地をもった河岸場があり、高瀬船を数艘備えていたが、出船入船の数は年間七〇艘におよび、米麦三八二五俵、醤油五五〇樽、大豆・小豆一四八俵などを扱っていた。

 その下流にあたる吉川河岸は、通常平沼河岸とよばれ、主に吉川市場の売荷を扱っていたが、『武蔵国郡村誌』によると当時高瀬船五艘、伝馬船九艘、似〓船四艘を備え、明治二十三年の調査では、年間に米三万五六七四俵、雑穀二三三三俵、荒物一万五〇〇〇駄、〆粕五〇四〇俵、酒一〇〇〇樽、酢一万二八八五樽など大量な荷を扱っており、このほか下肥二万五〇七七荷を陸揚げしていた。

 江戸時代の舟運は、これら商人荷物とともに、年貢米の輸送にも使われたが、吉川以南の中川を除き、冬期は葛西用水川俣元圦が閉塞されたので川の通水が途絶した。年貢米は秋から冬にかけて江戸へ廻送しなければならなかったので、川通り村々は通水が止まると遠路江戸川通りの河岸場へこれを運んで津出ししなければならなかった。このため杉戸・粕壁の各名主・問屋一同は、享和三年(一八〇三)に、秋から冬にかけての年貢米津出し中は、川俣圦樋を開き、川底二尺ほどの通水を許可してもらいたいと係り役人に嘆願している。

 また水のない冬期は、これら船を安全な場所に置く必要があったので、その置場所にもこまることもあった。増林村榎本家の「訴書留」によると、文化七年(一八一〇)増林村の源右衛門河岸で荷船の運送稼ぎをしていた船持の権八が、水のない冬の期間、船を置く適当な場所がなかったので、隣村大吉村香取神社地の川縁に船を留置くことを大吉村に願い入れ、この場所代として金二朱の酒代を同村へ納める約束をしている。

 しかし冬期でも、水が少しでもあると船を廻送することがあったようである。大吉村染谷家文書によると、大吉村地内葛西用水路(逆川)は、十一月から二月までは引船を禁止されていたが、文化十年(一八一三)の冬は比較的水が豊富であったためか、葛西用水路へさかんに船が出入りした。このため伏越樋の修復普請に差支えた大吉村は、通行する船持に対し、通水期間でも今後一切葛西用水路の通船を差留めると通告した。これに驚いた船持たちは、冬期の通船はしないと謝罪したが、このときの詫状には、増林村権八、向畑村伊之助、松伏村与兵衛、大河戸村喜八、同吉左衛門、越ヶ谷町熊次郎、同留次郎、そのほか平方村、藤塚村、銚子口村、赤沼村、粕壁町の逆川を通航した船持一六人が連署しており、船乗稼業もさかんであったことが知れる。

古利根川の廃船(大吉地先)

 このように農民の間で船を所持する者は少なくなかったので、各農民の間でも船はさかんに売買されていた。たとえば榎本家の「訴書留」によると、安政四年(一八五七)十月、増林村百姓源四郎が下総国葛飾郡椚村の船大工国次郎に、一人乗り高瀬船一艘を造らせたが、これを翌安政五年五月に、農間船乗渡世の船渡村百姓五郎兵衛へ金八〇両で売却している。この船にかかる船年貢は銭一貫五〇文、それに役銀は七二匁二分九厘であったという。また安政六年三月増林村百姓大助が、埼玉郡粕壁町平四郎所持の高瀬船を買求めているが、この船の船年貢は銭九〇〇文であったとある。

 これら荷船のほか、川下小船と称する船を所持した農民も多かったが、この小船は主に下肥の輸送に使用されていたようである。慶応元年(一八六五)閏五月、平方村百姓次郎右衛門をはじめ九人の川下小船所持者が、江戸から下肥を運ぶため、極印鑑札の下付を川船役所に願いでている。当時鑑札を所持しない船は江戸へ入ることができなかったからである。

 この極印鑑札を必要とした川船に関しては、享保六年(一七二一)勘定奉行配下の作事棟梁鶴飛騨が川船奉行に任ぜられ、以来世襲で関八州の川船を扱った。この役所を川船役所と称し、極印鑑札を下付して船年貢や役銀を徴収し、また船改めを行なって無鑑札の稼人を取締った。このため船を稼業に使用するときは、川船役所へこれを届け、鑑札の交付をうけて年貢や役銀を納めなければならなかったのである。