綾瀬川の舟運

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綾瀬川は延宝八年(一六八〇)に小菅村から隅田村までの新水路が疏通されるとともに、川の堰止めが禁止され排水一筋の流れになった。このため舟運には便利な川となり各所に大小数多くの河岸場が設けられた。このうちの主な河岸場を挙げると、岩槻領加倉の妙見河岸、足立郡戸塚の銀蔵河岸、埼玉郡蒲生の半七河岸と藤助河岸、足立郡草加河岸などが数えられる。

藤助河岸場跡

 『武蔵国郡村誌』によると、加倉の妙見河岸は当時五〇石積荷船一艘、二〇石積荷船二艘、戸塚の銀蔵河岸が五〇石積荷船七艘、二〇石積荷船九艘、一五石積荷船一六艘、草加河岸が似〓船五艘、伝馬船四艘、小伝馬船二艘を備え、綾瀬川の舟運に活躍していた。また蒲生の半七河岸は河岸場の敷地が九三坪、藤助河岸が四五坪で、江戸時代は半七河岸が活溌であったようであるが、明治に入ると衰退した。一方、藤助河岸は日光道中の往還端で地の利を得ていたためか、荷船一〇艘、伝馬船一〇艘、川下小船一九艘を備え、昭和の初期まで営業を続けていたという。

 江戸時代商品作物の輸送は、これら河岸場からさかんに船で江戸へ廻送されたが、年貢米の輸送にも綾瀬川は重要なものであった。七左衛門村天保九年(一八三八)の「村差出明細帳」によると、同村の年貢米の津出し場は、新綾瀬川通り大間野村や越巻村の河岸場から積出しているとあり、水の少ないときは元荒川通り瓦曾根河岸、あるいは古利根川通り榎戸河岸から津出しすることがあると記されている。

 このようにおそらく綾瀬川通り村々の年貢米は綾瀬川を利用していたとみられる。このうち七左衛門村周辺の村々は、戸塚村銀蔵河岸に年貢輸送に適した船を備えていたので、ここの船に輸送を請負わせていたようである。たとえば弘化四年(一八四七)十月、七左衛門村では七二五俵の年貢米を、戸塚村の富右衛門に請負わせてこれを廻米させている。このときの運賃は金三両二分二朱と銭七八〇文であった。

 これら河川による舟運は、江戸時代中期以降次第に隆盛をきわめ、荷物の輸送に欠かせない存在となったが、明治以降鉄道の開通その他で急激な衰退をみせ、現在ではそのおもかげを止めている所も少ない状態である。