江戸時代の農村は、士・農・工・商の身分制度の確立によって町方とははっきり分離され、自給自足の自然経済に閉ざされていた。したがって、原則的には、農民の商人化や農村商業は禁止されていた。しかし、現実にはみずから生産することのできない塩や鉄製農具などの生活必需品を購入したり、年貢金納のため、あるいは都市住民のため、みずからの農業生産物を商品化する必要があった。このため江戸時代初期から町方と村方との間の商品流通は存在したとともに、時代が下るにしたがい、両者間の商品流通は次第にさかんになり、後期には広汎な農村商業の展開がみられるようになった。
享保三年(一七一八)、砂原村の百姓勘重郎の弟元右衛門が、麦畑に家を建てて酒や豆腐の商売をはじめようとした。ところが村役人にこれを咎められ商いを停止させられた。理由は、新規に商いをするときは名主にその許可をうけなければならないという幕府の仰せに背き、名主へ届けでないで勝手に店を開いたのは我儘な所業である、と判定されたからである。
道中宿場町の農民は、幕府の要請により旅籠屋そのほか旅びと向けの商いは許されていたが、在郷農村内での商いは原則的に認められなかった。しかし農村にも貨幣経済が浸透してくるにしたがい、農業の合間に商売をする、いわゆる農間余業者がふえたが、はじめはなにかと制約があったようである。
享保十三年十一月、袋山村百姓善左衛門・喜兵衛・市郎兵衛は、農間酒商いを営んでいたが、村内の若者が酒を飲み、から豆盗みなどの悪事を働いたことで、これらの者に酒を売っていた前記三名の者が村役人から取調べをうけた。このうち喜兵衛は、悪者に酒を売らなかったので酒商いを続けることが許されたが、今後悪しき者には酒を売らないという証文をとられている。また、善左衛門は悪者に酒を売ったので自発的に商いを止めたが、市郎兵衛は村中に相談なく商いをやっていたことが知れ、以来商売はしないという誓約書を村役人へ出している(越谷市史(三)四二二頁)。
このように、現在では考えられないような制約が付された在郷農村の農間商いであったが、西方村ほか三ヵ村の天保九年(一八三八)の農間余業調査によると、たとえば「八拾六年以前酉より居酒渡世百姓久兵衛」、「七拾六年以前未より荒物・酢・醤油商ひ百姓直右衛門」、「七拾年以前丑より蚊帳・肥類・莚・叺・塩商ひ百姓新六」、「七拾年以前丑より古着屋商売百姓新六」とあり、およそ宝暦年間(一七五一~六七)を境いに、急激な農間余業の発生をみせている。
幕府はこうした農村での商工業の賑興を農業の障害とみて、しばしば新規商家の規制を通達するとともに、その実態を掌握し統制する政策の一環として、寛政年間以来、文政、天保年間とたびたび農間余業調査を実施している。
すなわち、まず寛政六年(一七九四)には江戸近郊挙場村々を対象に鳥見役による農間余業の一斉調査が実施された。このとき西方村では惣家数一六五軒のうち、絞油・酒造・豆腐・太物・染屋・釘鍛冶・干鰯などの諸商いをしている家一四軒を届けた。ところが鳥見は自ら出張してきて、些細な商売家をもつぶさに見分していったが、その家数は数十軒に及んだという。西方村の「旧記四」によれば、この折の書留は見当らないとあるので前記以外の諸商いの内容は不明であるが、多くの家が農間なんらかの商売をしていたことは間違いない。