文政八年の余業調査

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ついで支配地別に代官による商家調べも幾度か行なわれたが、なかでも文政八年(一八二五)の再度の鳥見役による余業の一斉調査は徹底したものであったので、西方村の書上をつぎに掲げる。

    御代官山田茂左衛門当分御預り所

          武州埼玉郡八条領西方村

一水油絞りかつぎ商            百姓 又四郎

一酒ぞうりわらじ飴菓子かつぎ商      地借 佐左衛門

一飴菓子かつぎ商             百姓 五兵衛

一酒酢醤油ぞうりわらじ          百姓 初五郎

一紙蝋燭わらじ線香古着送質小商      地借 新蔵

一水茶屋にて飴子餅商           百姓 元七

一大工并飴菓子ぞうりわらじ        百姓 勇吉

一髪結                  地借 与吉

一左官                  百姓 仁助

一屋根屋                 百姓 忠右衛門

一木挽                  地借 忠五郎

一杣                   百姓 助七

一紙作花                 百姓 孫右衛門

一農業道具小商              百姓 孫助

一紙作花并豆腐ぞうりわらじ        百姓 喜助

一杣材木紙作花              百姓 久蔵

一紙花作                 百姓 所左衛門

一水菓子かつぎ商             地借 治郎兵衛

一酒醤油豆腐菓子ぞうりわらじ       地借 ふみ

一酒めん類                地借 新右衛門

一紺屋酒屋                百姓 幸右衛門

一紺屋                  百姓 五左衛門

一酒醤油菓子ぞうりわらじ         百姓 伝左衛門

一酒造                  百姓 勘兵衛

一大工                  百姓 権兵衛

一桶屋                  百姓 新六

一大工                  地借 平吉

一小間物                 地借 浅右衛門

一水菓子類                地借 勝右衛門

一古着かつぎ商              百姓 吉左衛門

一豆腐屋                 百姓 伊兵衛

一水菓子                 百姓 伊右衛門

一水菓子                 地借 三治郎

一酒醤油酢ぞうりわらじ          百姓 平五郎

一酒醤油酢ぞうりわらじ          百姓 倉之助

一反物太物水油絞り酒醤油紙類       百姓 弥一郎

一水油絞り                百姓 与三郎

一左官                  百姓 勘兵衛

一馬喰                  百姓 藤五郎

一穀物ぞうりわらじ菓子類         地借 善太郎

    大聖寺領 同州同郡同領同村

一米屋                  百姓 源七

一足袋屋                 百姓 市助

一綿打                  百姓 藤助

一干鰯                  百姓 要吉

一酒醤油線香紙蝋燭并足袋ぞうりわらじ   百姓 源兵衛

一そばやそうめん類            百姓 栄吉

一そばやそうめん類            百姓 喜代八

一大工水茶屋飴菓子そばや         百姓 善蔵

一湯屋                  百姓 権左衛門

一髪結                  百姓 伊之助

一座敷附茶屋但酒肴小商不動尊参詣之節泊り 百姓 金兵衛

一座敷附茶屋但(右同断)         百姓 久兵衛

    万年七之助知行所同州同郡同領同村

一葭図張水茶屋飴菓子           百姓 善兵衛

一釘鍛冶                 百姓 宇太郎

一かつぎ飴菓子              地借 佐右衛門

 これによると西方村の農間余業者は、大工・左官・屋根ふき・桶屋・杣・鍛冶屋などの職人を含め五五軒にのぼっている。当時西方村の総戸数は一五五軒であったので、実に三分の一の家が農業のかたわら諸余業に従事していたのである。これらの余業には、酒・醤油・豆腐・めん類・菓子・紙・ぞうりなど日常の消費物資を扱っている店はもちろん、反物・古着・肥料・農具などを扱う店もあり、ほとんどの生活必需品が村内でまかなえる程である。このほか紺屋や油絞り、さらに紙の造花づくりも盛んであり、家内工業のはしりが感じとれる。しかも〝ぼて振り〟といわれるかつぎの行商人もいて、家々を戸別に廻って歩いたとみられるので、貨幣さえあれば不自由を感じなかったであろう。

 もっとも西方村の大聖寺は、〝大相模の不動さん〟と称され、周辺地城の人びとの信仰をあつめた寺であったので、門前百姓の多くが座敷茶屋や湯屋・髪結・そばやなど、参詣人相手の商売を営んでいた。したがって西方村の数多い農間渡世人数は例外であったかも知れない。しかし天保九年(一八三八)の農間余業調査(越谷市史(三)四三一頁)では、東方村が総戸数一二六軒のうち三四軒、南百村が総戸数二八軒のうち九軒が農間余業者であり、農間余業は当時の一般的な傾向であったとみられる。

 すでにこの時期には、自給自足経済を基本とした農村の構造は大きく崩れつつあったのである。