質屋

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田畑・林野の移動は、一般的に永代売買と質入方法でおこなわれたが、幕府は寛永二十年(一六四三)に田畑永代売買の禁止を布告し、以後禁止方針をくり返し達していたので永代売買によるものは少なかった。しかし年季をきめて質入するのは許されていたので、江戸時代を通じ質入はきわめて盛んであった。はじめ質入は不作・凶作、あるいは経営の破綻から年貢・諸役の納入に差しつかえ、富裕な農民層から田畑・屋敷・山林などを質にして借入れたが、貨幣経済が一般的になると、日常の生活に困って質入する者がふえ、耕地・山林ばかりでなく家財・道具・衣類まで質入して金融を求めた。このため金融機関としての質屋が商売としてあらわれ、辺ぴな在郷農村にも質屋渡世がみられるようになった。

 この質屋渡世の発生は、すでに幕府が天和三年(一六八三)、「在々にて質屋・古着屋どもの儀、質物取候はば、置主・証人吟味いたし印形致させ質物取申すべく候」と、在方質屋の取締令がだされているので、在郷での質屋の発生ははやくからのものであろう。

 越ヶ谷本町内藤家の「記録」によると、内藤家が越ヶ谷町で質屋をはじめたのは宝暦三年(一七五三)からであるとあり、一般庶民を相手とした当地域の質屋稼業も比較的古い頃からであったようである。さらに時代が下るにつれその数も多くなった。七左衛門村井出家文書の安政二年(一八五五)「寄場役人名前書上帳」によると、越ヶ谷宿寄場組合内の質屋稼業者数は、越ヶ谷町が二二名、大沢町が一五名、川藤村が六名、四町野村が五名、袋山村が四名をはじめ、組合村々二四ヵ村で八八名を数える。質屋渡世をはじめた年限は、四町野村吉右衛門・小林村三郎兵衛の宝暦二年が早い例で、明和・天明・寛政・享和・文化・文政・天保と時代が下るにしたがいその数を増している。

 これら質屋稼業は専業ではなく、すべて農業あるいは紺屋、塩・炭・荒物商い等のかたわらの兼業である。質屋渡世人の階層をみると、在郷農村では、およそ所持石高一〇石から二〇石、あるいは高五〇石以上の高持層による質屋稼ぎが多くみられるが、なかには高一石以下、あるいは地借層によるものもみられる。一方大沢・越ヶ谷の町場では、高一三三石八斗余所持の塩屋吉兵衛、高三一石三斗余の永楽屋作兵衛などの高持層もみられるが、その多くは地借層が、荒物・箱屋・古着・青物などの商業渡世のかたわら質屋を営んでいるのが町場の特徴といえる。

 これら質屋稼ぎも、はじめは自由営業であったようであるが、寛政六年(一七九四)江戸五里四方将軍家鷹場の拳場村々が、鷹場鳥見役によって農間余業の取調べをうけたとき、質屋渡世人も規制されている。すなわちこのとき届けにもれた西方村の山治郎と利助は、翌七年一月、鷹場組合触次役の差添えで、天明元年(一七八一)以前より質屋渡世の旨を鳥見役に申し出て、その許可を願った。鳥見はこの願いを一応承知したものの、家宅見分後農間渡世人調帳へ書加えるといい、これをそのままにしていた。その後山治郎は西方村を退転し、利助は質屋株を弥一郎に譲った。弥一郎は文政七年(一八二四)、代官による質屋・米穀その他の商売調べの際、西方村質屋渡世人二名の者とともにこれを書上げた。しかし翌八年、鳥見役による農間余業人の再調査には、寛政度の調書に記載がないのでこれを届けることができなかった。困惑した弥一郎は天明元年からの質物附込帳その他の証拠書類を持って再度鳥見役に願い出て、ようやくこれが許された。これらの事例で拳場地域では、すでに寛政度から質屋渡世人の取締りをうけていたことが知れる。

 ついで拳場地域以外の村々も、文政十年からの文政改革によって質屋はきびしく取締りをうけるようになった。越ヶ谷本町内藤家の「記録」によると、文政十年二月、代官伊奈半左衛門役所の手附が越ヶ谷宿に出張し、諸事改革の旨を示したうえ質屋仲間の取調べを行なった。このとき新規質屋は認めない方針を申渡し、仲間取きめの上で株金を徴収しこれを地方入用の助成金に廻すよう勧告した。越ヶ谷宿質屋一同はこの勧告にもとずき、質屋株を設け、年々株金を徴収してこれを積立てたが、この積立金は赤山道の普請や石橋の普請にあてられたという。

 また当時質の利金は、金一両につき一ヵ月銭七二文、銭一〇〇文につき一ヵ月銭二文の割であったので、一年におよそ一割二分の利金に相当する。これは幕府が元禄度に定めた質利金とほぼ同じ率だとあるので、質の利金はこれまで大きな変化はなかったようである。しかし天保十三年(一八四二)十一月、幕府は質利金の引下げを勧告してきた。つまり元禄度の定めより二五%の利金引下げを申渡してきたのである。越ヶ谷宿一同はこの勧告にもとずき、質利金一両につき一ヵ月銭六〇文、銭一〇〇文の質金に対し銭一文五分の率に利金の引下げを協定した。しかしこの質利金の引下げも、翌天保十四年、天保改革の推進者老中水野忠邦の失脚とともに反古となり、千住・草加・粕壁各宿は同年九月、越ヶ谷宿でも同年十一月、元の質利金に戻したという。

 質屋は当時一般庶民の唯一の金融機関であったので、さかんにこれが利用されたが、商売が貸借関係で表向き目につかないだけに、無届の質商いをする者が多く、関東取締出役らによりしばしばこれを摘発されることがあった。たとえば西方村須賀家文書によると、天保三年三月、西方村百姓留五郎は質屋無株にかかわらず、懇意なものから品物を預かり金銭を融通していたが、この無届質屋稼ぎが発覚し、きびしくこれを叱責されている。

 このほか庶民の金融には、商業としての金融機関ではなかったが、頼母子講などによる無尽金融や、寺社の修復資金に積立てられた祠堂金などもさかんに利用された。