農民層の分解

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天明の飢饉に代表される凶作、幕末期にかけての慢性的な不作、さらに商品生産や貨幣流通の展開、なかでも物価の高騰などとあいまって、農民層の分解が促進された。越巻村中新田「産社祭礼帳」によると、中新田総戸数約二〇戸ほどのうち、安政四年(一八五七)から同六年までの間に五軒もの潰れ百姓がでている。潰れ百姓の多くは質地流れで耕地家屋敷を失い、村から退転するか水呑と称される小作層に転落した。

 この反面、これら潰れ百姓や小前百姓の土地を集積し、地主層に成長していく層もあった。それはいうまでもなく村内農民の貧富のへだたりが拡大されることであった。こうした農民層の分解は、全国的な現象であったといわれるが、当地域の二、三の村の例をとってこれを検証してみよう。