袋山村はほとんどが畑地であり、元禄八年(一六九五)の検地で村高が二三七石余に定められたが、この面積は六四町歩余である。このうち袋山村下組三二町歩余における各人の所持面積の変化を示したものが前頁のグラフである。これによると、元禄八年の検地時には、一町歩以上五町歩未満の土地所有者が一三戸で全体の五九%、一反歩以上一町歩未満の者が一〇戸で全体の四一%であり、いちじるしい土地所有の不均衡はみられない。所有地のもっとも多いものは市左衛門で三町七反歩、最小は弥五左衛門の一反一畝歩である。
ついで宝永六年(一七〇九)は全体的には大きな変化はないが、元禄の検地時に最大の土地所有者であった市左衛門家が四家に分割されて後退し、このときの最大の土地所有者は金兵衛の三町四反歩である。享保九年(一七二四)になると、土地所有で一反歩未満の者が一名あらわれ、逆に五町八反歩の大土地所有者が一名でてくる。これは袋山村名主細沼家であり、細沼家はこの頃から土地所有で急速に台頭してくる。その他は一反歩未満が一〇戸で全体の四三%、一町歩以上四町歩末満が一一戸で全体の四九%であり、大きな変化はない。しかし元文元年(一七三六)になると、一反歩未満の者がいなくなったが、一反歩以上一町歩未満が一三戸で全体の六二%を占め、零細化の傾向がみえてくる。しかも細沼家のこのときの土地所有は一〇町歩以上にのぼっている。
ついで延享四年(一七四七)は元文度とほとんど変化はなかったが、宝暦六年(一七五六)になると、一反歩未満の土地所有者が再びあらわれ、一反歩以上一町歩未満が一五戸で全体の六五%とさらに零細化の傾向が進む。これが明和四年(一七六七)になると一反未満の零細層が八戸にふくれあがり、反面、一町歩以上五町歩未満の層が五戸を数え、階層分化の進行が明確に示されている。このときの細沼家の土地所有は一二町五反歩にたっしており、この面積は袋山村下組の総面積三三町歩余に対し、実に三七%にあたる。
つぎに袋山村下組の、所持石高からみた階層構成の変化を示したのが第13表である。この石高は石盛を上畑七ッ、中畑五ッ、下畑三ッ、下々畑一ッ、屋敷七ッの割合で算出した各人の合計である。これによると元禄八年の検地時には、所持高一石以下の者が二名、一五石以上二〇石未満の者一名を除き、あとは一石以上一五石未満の層で占められている。この所持石高の平均は五・九石であり上下の差のひらきは少なく農民層の分化は明確には表われてない。これが明和四年になると、細沼家の所持高五四石を筆頭に、高一〇石から一五石未満の者が三名、高五石から一〇石未満の者が二名であるのに対し、高五石以下の者が実に二九名にものぼり、高五石以下の零細な層が全体の八二%を占めている。
石高 (石以上―石未満) |
元禄8 | 宝永6 | 享保9 | 元文元 | 延享4 | 宝暦6 | 明和4 | 嘉永4 | ||||||||
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% | % | % | % | % | % | % | % | |||||||||
50石以上 | 1(54) | 3 | 1(84) | 3.7 | ||||||||||||
45~50 | 1(46) | |||||||||||||||
40~45 | 1(41) | 5 | 1(42) | 4 | ||||||||||||
25~40 | ||||||||||||||||
20~25 | 1(24) | 4 | ||||||||||||||
15~20 | 1 | 5 | 1 | 5 | 1 | 5 | 1 | 3.7 | ||||||||
10~15 | 4(12) | 17 | 3(12) | 12 | 2 | 9 | 1 | 5 | 2 | 8 | 4 | 17 | 3 | 9 | 1 | 3.7 |
5~10 | 8 | 36 | 10 | 40 | 9 | 39 | 3 | 14 | 2 | 8 | 1 | 4 | 2 | 6 | 4 | 14.9 |
1~5 | 8 | 36 | 11 | 44 | 9 | 39 | 15 | 71 | 16 | 67 | 15 | 66 | 14 | 40 | 10 | 37 |
1石未満 | 2 | 6 | 1 | 4 | 2 | 9 | 2 | 8 | 2 | 9 | 15 | 42 | 10 | 37 | ||
合計 | 23 | 25 | 22 | 21 | 24 | 23 | 35 | 27 |
〔注〕表内の数は戸数を示す。( )は細沼家の石高数。
また嘉永四年(一八五一)の宗門人別帳によってその所持高をみると、細沼家は高八四石に上昇し、下組耕地高一七二石の約半分にあたる四八%強を所持している。その余は高一五石以上二〇石未満の者が一名、高一〇石以上一五石未満の者が一名、高五石以上一〇石未満の者が四名、これに対し高五石以下の層が二〇名と全体の七四%を占める。しかも明和四年に三五戸であった袋山村下組の戸数が、嘉永四年には二七戸と八戸も減少しているが、あるいはこの減少分は退転百姓であったかも知れない。階層の両極分解は、はげしく農村を揺れ動かしていたことが知れる。
なお七左衛門村井出家安政二年(一八五五)の「寄場役人大小惣代道案内人其外書上帳」によると、当時袋山村の細沼吉左衛門の所持高は、高四二四石余であり、当地域周辺では高五二〇石余所持の葛飾郡松伏村石川民部につぐ大高持である。つまり細沼家は村内の所持高八四石を除いた高三四〇石は、他村の土地を所有していたのである。