西方村の階層構成

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こうした階層分化の現象は、袋山村の例で知れるごとく、かなり早い時期から進行していたが、ことに幕末期にかけて急激に進行し、上下のへだたりが大きくなった。この典型的な例として、明治四年(一八七一)の宗門人別改帳により、西方村の場合をみると、第15表のごとくである。

第15表 西方村 明治4年階層構成
持高 軒数
100石以上 3 5%
50石以上 4
30~40 6 20%
20~30 2
10~20 12
5~10 7
1~5 31 75%
1石以下 36
無高 36
137

 すなわち西方村の戸数は、当時一三七戸(御料分)であったが、このうち持高五石以下一石までのものが三一戸、高一石以下が三六戸、無高が三六戸であり、無高を含めた零細層が全体の七五%にあたる一〇三戸で西方村村民構成の絶対数を占めている。これに対し高五石以上四〇石未満の標準的な農家が二七戸と全体の二〇%にすぎない。あとの五%が高五〇石以上の大高持で、このなかには高一七〇石余の秋山弥之吉、高一三五石余の斎藤孫兵衛、高一一三石余の秋山吉重郎と、高一〇〇石以上の石高所持者が三名含まれている。ことに村民の二六%を占める無高層の存在は、ほかの村々と比較しても珍しい例であるが、これは西方村の農間余業の隆盛と無関係ではないであろう。