地主と小作

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自給経済を基本とした農村にも、貨幣経済が進行していくにしたがい、質地を中心とした小作関係が広汎に展開された。さらに質地流れを重要な契機とし、手作地の縮少をはかって小作料に依存する寄生地主があらわれた。これらは前述の石高所持による階層構成の推移をみれば、土地移動の動向があきらかに知れることである。この土地の移動はいうまでもなく質地によるところが大きいが、耕地を担保に金融をうけた農民は、この質地に入れた耕地を引続いて耕作する場合が多かった。これを直小作という。

 たとえば西新井村新井(省)家文書によると、天保十年(一八三九)十二月、西新井村百姓次郎左衛門が、足立郡大間木村の清次郎に、上・中・下の田畑合せて六反五畝一〇歩を五ヵ年季で質地に渡し、年季過ぎても元金を返済できないときは、これを他人へ質地へ入れようと、または自分が所持しようと勝手次第に処置されたいという条件で金二七両の融通をうけた。しかしこの質地は、年季がくるまでは質入主である次郎左衛門が耕作を続け、そのかわり年間米一五俵一斗と金一両三分を清次郎方へ納める約束である。つまり、質入れの本人が小作料を払って耕作を続ける直小作の例である。なお、この小作地にかかる年貢は、米六俵二斗余と永一七二文二分であり、これは小作料に含まれている。

 また質取人が質入主以外の者にこの質地を小作させることも行なわれたが、これを別小作、あるいは請負小作と称した。たとえば砂原村松沢家文書でみると、天明六年(一七八六)二月砂原村の伊兵衛が、「貴殿、仁左衛門方より質物御取りなされ候田地」三反一〇歩を四町野村藤左衛門から一ヵ年季の約束で小作を請負っている。このときの証文では年貢諸役を伊兵衛が引受け、なお作徳(小作料)として米納を金子に見積り、金一両を藤右衛門に納めることになっていた。

小作証文

 このほか質受地あるいは所持地の一部を、家守・地守という形で他人へ預けることも行なわれていたが、これらも請負小作と同様な場合が多かった。たとえば袋山村細沼家文書によると、元禄十六年(一七〇三)二月、末田村の吉兵衛が、袋山村の吉左衛門から田畑合せて一町五反歩の家守を請負っているが、吉兵衛はこの地にかかる年貢諸役を勤めるほか、作徳として田方一年に米九俵、畑方一年に金二両宛づつ吉左衛門方へ納める約束である。

 このように小作人が小作地に課せられた年貢諸役を負担することもあったが、一般には、年貢諸役は地主が負担し、小作人は年貢諸役を含めた小作料を地主に納めた。もちろん後者の小作料は前者よりも高額であり、当地域では田一反歩につき小作料は一石程度が普通である。当時の収穫量は一反あたり四俵から五俵がせいぜいであったので、一反あたり二俵半も作徳にとられては、小作人の負担が重いのは当然であった。このため天候不順や水害などで不作であったときは、小作人一同協同して小作料の減免を地主に願うことがあった。これに対し地主側は地主どうしの協定を結んでこれに対応した。

 寛政七年(一七九五)十一月、七左衛門村地主方一九名は、小作人一同の小作料減免願いに対し、

(1)田方の収穫をみて耕地別に小作料をまける場合もあるが、まけないからといって耕作を続けないものがいれば小作地を取上げ、この小作人へは一切これを与えない。

(2)残米を所持していながら小作料を納めようとしない者は、早速耕地を取上げ今後小作させない。

(3)年貢定免の年は、小作人がどのように減免を願いでても小作料をまけたりしない。

(4)定免年季明けの際に課せられる増米に対しては、この増米分を小作料に含めて値上げさせる。

(5)他村の耕地を小作している者は、ありきたりの橋を通行させるようにし、近道だからといって新規の橋をかけさせない。

と、以上のごとき趣旨の議定をむすんで小作人に対していた(越谷市史(三)四二四頁)。

 また天保七年(一八三六)の冷害による全国的な大凶作にあたり、蒲生村小作人一同は役所へ出訴して小作料の減免方を願ったが、これに対し蒲生村地主方では役所からの呼出しに備え、地主議定をとりきめている。この地主議定によると、米一石につき米二斗五升の率で小作料を減免するが、これ以上の勘弁はしない。もしこのとりきめに違反して二斗五升以上をまけた地主がいたときは、一同御役所でこれを申立てる、といっている。小作人は他人の耕地を借りて生活しなければならなかったのでその立場は弱いものであったが、このような地主相互の強硬な協定に抵抗し、一同して奉行所へ御法度の越訴(おっそ)をこころみることも珍しくなかった。

 西方村「旧記四」によると、関東大水害のあった享和二年(一八〇二)、西方村はその被害の率が破免検見の条件にたっしていないという理由で年貢の減免が認められなかった。このため西方村の地主方では、年貢をまけてもらえない以上、小作料もまけるわけにはいかない。ただし困窮は皆同じであるので、特別に一反あたり三升宛の引方を認める、と主張した。これに対して小作人側は、一反あたり九斗から一石六升までの小作料なので、収穫の全部を小作料に納めてもなお足らない程である。小作料をまけて小作人が生活できるように取はからってもらいたいと、幾度も交渉を重ねた。しかし西方村の地主方は強硬にこれを拒んだので、小作人一同は小作料の引下げを願い奉行所へ門訴(もんそ)を決行した。

 門訴をこころみた人びとは、名主―代官―奉行所という訴訟手続きをふまない御法度の越訴であったので、越訴の重立った者五名が奉行所で手鎖に処せられ、残りの者は、一〇人あるいは一五人宛に八軒の江戸宿へ預けられたとあるので、参加人員は少なくとも一〇〇名以上であったとみられる。結局この越訴一件は全員無罪釈放になったが、小作料もこの騒ぎで相応に引下げられたようで無事におさまっている。