幕府の財政

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元禄期(一六八八~一七〇四)以降財政難を示しはじめた幕府は、ついに享保七年(一七二二)には、万石以上の大名に対し「御恥辱を顧りみず高一万石につき米百石の積り」の上げ米を命じ、諸大名から幕府財政の援助を乞うまでに窮迫を告げた。しかしその後、享保改革による年貢増徴政策などにより、幕府財政の窮乏は多少緩和されたが、それがもとで農民の広範な抵抗をうけ、年貢収奪による財政建直しは限界をみせた。加うるに幕府支出面の年毎の増大によりその財政収支は大幅な赤字を生むようになった。

 幕府はこのため貨幣改鋳の益金や御用金の賦課による臨時収入をはかってこれを弥縫したが、すでに正常な財政を維持することができず、幕末期には財政的にも破局を迎えるにいたった。この間の幕府財政収支をみると、たとえば天保期(一八三〇~四四)の収入は、金に換算すると、年間金四〇一万二七〇〇両前後あったという(古島敏雄「幕府財政収入の動向と農民収奪の画期」東京大学出版会刊『日本経済史体系4』所収)。この収入の内容は、年貢などの経常収入が全体の四六%、あとの五四%は貨幣悪鋳による益金などの臨時収入であった。

 このうち経常収入の内訳をみると、幕府直轄領はおよそ高四〇〇万石であり、ここから取立てる年貢米は諸経費を差引いて米一五三万石余である。これを金高に換算すると、この額が金一六六万二五〇〇両であり、経常収入の九一%にあたる。このほか物資流通上の収入と鉱山収入がともに四%弱であり、これに献上金や寄合小普請役金が加わっている。いずれにせよ、この経常収入が正常な幕府収入といえる。

 これに対し幕府総収入の五四%にあたる臨時収入の内訳は、貨幣改鋳益金つまり貨幣悪鋳による出目分が四〇%弱、それに三三%強の御用金、二七%強の諸貸附返済金であった。

 また支出の面をみると、その全支出の六四%が、知行所のないいわゆる蔵米取りといわれる御家人以下の直臣の俸禄や役料によって占められており、中央・地方の行政費が一八%、その残額が江戸城奥向の費用であった。したがって本編第一一章「幕末の越谷」で後述するように、江戸城修築や長州征伐のような臨時支出の必要に迫られたときは、幕府は直轄領村々に多額の御用金を賦課したりした。

 一方、幕府のように広大な領地をもたず、また貨幣改鋳のような財政弥縫策をもたない諸藩にあっては、その財政窮乏は幕府よりいっそう深刻であった。しかも城廓・寺社などの造営工事や治水灌漑工事などの御手伝普請、それに参勤交代などがともに藩財政に圧迫を与えていたので、諸藩では早くから財政に困窮し、領民から年貢米を引当てに前借しながらやりくりしていたのが一般的であった。