忍藩阿部家の財政

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八条領村々のうち、東方村・見田方村・麦塚村など八ヵ村は柿ノ木領と呼ばれ、忍藩阿部家(文政六年からは松平家)の領地であった。明和七年(一七七〇)忍藩では、藩財政の窮迫から、この年も江戸屋敷御勝手向入用金の不足を補うため、柿ノ木領村々に金一三一〇両の先納金を割当てた。この先納金の返済は、年貢米を引当てにしてその年度内に清算する約定であった。柿ノ木領村々ではこの領主の借用金申入れに対し、この年も他借などで調達して納めた。ところが当年は金一三一〇両のうち元利金四一〇両が返済されただけで、残り金九一〇両の元金は次の年度に延期された。

 藩では金九一〇両の未払分を残したまま、明和八年度にも年貢米引当金一三一〇両と、柿ノ木領の村請による他借調達金四〇〇両、合計金一七一〇両の借用を割当てた。柿ノ木領村々の農民は、いずれも自己調達する資力がなかったので、この年もそれぞれの金主に金策を願ったが、金主方では前年度の借金を完納しなければ、改めて金を融通することはできないと断った。このため農民たちは親類縁者は勿論、手ずるを求めて他領の知人などに金策を頼み、田地家財を質入れしてようやく割当てられた先納金を調達した。

 翌明和九年十月、この月は先納金の返済期日にあたり、各村々では引当て年貢米の差引勘定に追われていた。ところが藩から突然、先納金の返済は向う五ヵ年延期するとの申渡しが通告された。柿ノ木領農民はこれに驚き、農民それぞれが田地屋敷家財までをも担保にして金策した先納金であり、先納金返済が延期になっては百姓相続ができないと強硬な訴願をくりかえした。これに対し藩の役人は、それぞれの金主を呼んで事情を話し、農民借入金の延期を藩から諒解を求めるので金主を招集しろと申渡し、強硬な農民を宥めるため手をつくした。

 しかし金主方では頑として藩の招集にも応ぜず、農民に対して貸金の返済を迫った。また藩では先納金返済の延期を改めようとしなかったので、苦窮に立った農民は十一月二十日を期し、忍藩の江戸屋敷に先納金返済を求める強訴の決行を決意した。この日総勢二九九人が柿ノ木領を出発し江戸に向ったが、これを知った柿ノ木領割役名主宇田長左衛門をはじめ村役人は急ぎ後を追い、日光道中千住宿を通過しようとした強訴の一行に追いついた。長左衛門らは一行の説得につとめ、ようやくこれを宥めて村に帰すことに成功した。

麦塚村名主中村家

 届けをうけた忍藩では、この徒党強訴の企てを重くみて詮議を進めたが、表沙汰になっては忍藩のためにもならぬと考えたのであろうか、参加者二九九名の署名による始末口上書を提出させるにとどまり、処罰者をださなかった。この騒ぎのあと、藩では幾度か年貢米の津出しを督促したが、柿ノ木領村々ではかねてからの計画であったとみられ、年貢米を差押え、これを御預米と称して年貢米津出し拒否の戦術をとった。驚いた藩では、藩の頭取役や江戸勘定方らの役人を派遣し、六ヵ条の質問をもってこれをただした。この内容の要旨を示すとつぎのごとくである。

(1)百姓どもの借金返済の延期願いについては、自分らがこれを引受けて金主どもへよく申聞せる故、すみやかに年貢米を津出しするよう申付けたにもかかわらず、百姓どもはこれを聞入れず年貢米を差押えようとしているのはいかなる事情か不届至極である。

(2)(3)百姓どもは、金主が公訴に及んでは、江戸詰の費用や耕作方に差支え難儀の趣を申立てているが、もし金主に出訴されて出府するようなときは当方へ申出るよう申付る。さらに金主どもがいかに催促に及んでも、決して取合わないように申付る。

(4)百姓どもの借入金は年貢米引当ての約束によるものではないので、年貢米を津出しても、金主どもが文句を言う筋合はない。

(5)年貢米を津出したことで金主どもが訴訟をおこし、その結果たとえ即時借金を返済すべしとの判決があっても、そのときは阿部家がこれを引受けるので、百姓どもへは一切迷惑をかけない。

(6)阿部家の勝手向が差支えたので、よんどころなく先納金返済の延期を申付けたのに、金主どもへの対談申入れを断り、あまつさえ年貢米を差押え、金主どもへ借金を返さねば百姓どもは潰れに及ぶと主張する。何故そのようなことを申すのか。それは金主さえ助かれば領主が潰れても構わないという取計いであろう。

とのきびしい質問であった。これに対し農民側の答えは、

(1)先納金の引当てがわりに年貢米の津出しを拒んでいる訳では決してない。ちょうど麦蒔などの農繁期であったので農事に追われ、年貢米の俵詰が遅れたため津出しを控えていた。なお金主どもに対し藩の役人が説得につとめたといわれるが、金主どもは得心せず今も借金の返済を催促している。どうか御証文のとおり年貢米のうちから借金がわりにこれを金主どもへ下げ渡されるよう願いたい。

(2)(3)当方の百姓どもは、いずれも田畑・農具・衣類・諸道具にいたるまでこれを担保に入れて先納金を調達した。もし質流れにでもなると百姓相続ができない。

(4)私共は金主に対し、年貢米引当ての御証文を戴いていると申聞かせ、一ヵ年の期限付で借金をしたので、金主方では納得するはずがない。このままでは家財まで質にとられ、耕地・屋敷を離れて奉公へ出るほかない。こうなれば阿部家にとっても大きな不利益となろう。

(5)私共は金主から訴訟をうけても、阿部家でこの借金を肩替りしていただくので難儀ではない。しかし判決が下りるまでは長期間にわたるので、その間田畑の手入れもできず難儀至極である。

(6)恐れながら殿様への御奉公と存じ、百姓相互に励ましあい、金主を尋ね歩いてようやく苦面した先納金である。私共がなんで殿様の不利益になるような取計いをするであろうか。昨年度の先納金の返済が延期されたため、あてにしていた大金主からの融通がうけられなくなった。このため今回は私共と困窮は同じである小金主どもから田畑・屋敷・家財まで担保にして融通をうけたものである。これら金主をなんとかなだめ、そして私共百姓が安心できるよう取計いを願いたい。

 藩の役人と農民との間で、以上のごときやりとりがなされたが、結局差押えていた年貢米はすべて津出しせざるを得なかった。しかも先納金返済の五ヵ年延期は、藩の強硬な措置でこれが強行された。そこで柿ノ木領農民は、「以来御才覚金など御沙汰仰付けられ候とも、御請け申まじく候」とのべ、領主不信の念を吐露している。