越谷地域のうち砂原・後谷両村は元禄十一年(一六九八)から六浦藩米倉家の領地となった。六浦藩は高一万二〇〇〇石の小藩であり、しかもその領地は武州埼玉郡、同久良岐郡、相州大住郡、同陶綾郡、野州都賀郡、同安蘇郡にわたって分散していたので、六浦藩独自の支配貫徹は困難であった。いずれにせよ当藩の領主財政も早くから窮迫状態を告げていたとみられるが、砂原村松沢家文書にあらわれたものでこれをみると、つぎのごとくである。
六浦藩は、宝暦十年(一七六〇)三月、金三一九両を年貢先納金として砂原村に賦課した。おそらく砂原村ばかりでなく、ほかの六浦藩領村々にもそれぞれ先納金を割当てていたであろう。このとき砂原村ではこの先納金を自己調達することができず、梅津七五郎・三河屋市兵衛の両名から借金し、藩に納入した。その後も藩と領内村々とのこうした貸借関係は日常化していたと思われるが、史料的につまびらかでない。
この後、文化十三年(一八一六)六浦藩は「殿様御勝手向連々御不如意、御借財相増し此節必至と御差支え」になったとして、勝手向支出の仕訳積り書を領内村々に示し、無利子による借財を申入れた。この仕訳積り書によると、文化十三年度の米倉家勝手向総支出の予算額は、金七九二八両二朱余である。このうち金四一二両三分余の御門番勤番入用を除き、実際の米倉家の経常予算は、総額の三三%弱にあたる金二五六六両二朱余にすぎない。残りの六三%弱にあたる金五三六二両余は、実に累積した借入金元利の支払いにあてられている。
借入金の主な返済先は、第16表に示したごとくであり、梅津伝兵衛・鎌倉伊左衛門・大黒屋伊左衛門など商人とみられる者からの借入金や、伝通院・増上寺などの寺社名目貸附金、あるいは関東郡代所御貸附金など幕府公金貸附金、検校や農民からの借入金と、その借入先は多様であり、借用可能なところから相手を選ばず借用していた藩の窮状が察せられる。
借入先 | 元利返済金 |
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両分朱 | |
梅津伝兵衛 | 1,468.2.2 |
増上寺等寺社 | 1,447.3. |
幕府諸役所 | 571.3. |
鎌倉伊左衛門 | 263.3.2. |
伊勢屋吉右衛門 | 172.3. |
神田・野田検校 | 134.2. |
神奈川宿吉郎兵衛 | 113.3. |
大黒屋伊左衛門 | 108.3. |
蒲田伝七 | 105. |
永野村兵右衛門 | 71. |
城内村亀五郎 | 61.2.2. |
近江屋清五郎 | 58.3. |
三河屋市郎兵衛 | 57.2. |
この仕訳積り書を示され、無利子による金一〇〇〇両の借入れを申しこまれた領内村々では、領主に対し御勝手向倹約の要望書を提出した。米倉家ではこれに対し金二五六六両余の屋敷雑用金予算額のうち、金一六三両一分余の節約方を示してきた。そこで野州の城内村をはじめ一二ヵ村は、金一〇〇〇両の調達金のうち金五〇〇両の割当てを引受けることになったが、何分にも困窮の村々なので金五〇〇両のうち金二〇〇両は村々の農民が高割合で調達し、残り金三〇〇両は他借で調達すると申出た。しかもこの金三〇〇両の他借分については、年一割五分の利足を加え元利とも五ヵ年賦で返済するという藩の下知書を添えるよう願いでた。
この願いが許されたかどうかは不明であるが、その後も藩は毎年のように領内村々へ勝手向調達金を割当てている。砂原・後谷両村では、そのたびに野島村浄山寺等の祠堂修復積金のうちからこれを借入れて納めることもあったが、その多くは埼玉郡岩槻領黒谷村の四郎右衛門から年貢米引当ての融通をうけた。
たとえば砂原村では文政十年(一八二七)にも、六浦藩の下知書を添え「私共御領主様より調達金仰付られ候処、村方困窮につき、其許へ色々と御無心仕り」とて金一〇〇両の金子を黒谷村四郎右衛門から借入れている。この証文には、返済期限は一ヵ年季、元金に一割五分の利金を加え、そのときの相場に見合った年貢米で返済するとある。砂原村と後谷村では、この証文どおり、藩へ納入する年貢米のうちから借入金の金高に見合った現米を、そのつど黒谷村四郎右衛門方に船で廻送していた。
また領主が幕府の貸附金を借用するときは、領内村々の農民名儀で借用することもあった。たとえば文化十二年(一八一五)三月、砂原村の百姓辰之進が、年一割二分の利金をもって、金四〇〇両の金子を馬喰町貸附役所から借用したが、これには辰之進の地所六町二反一歩が担保として入れられている。しかしこの証文の奥書にはこの金子の返済期限にあたり「もし相滞り候はば丹後守(六浦藩主)にて引受け元利とも早速相納」めるとあり、藩の家老をはじめ財政担当の家臣がこれに連署している。すなわち、辰之進が借りた御貸附金は、実は領主米倉氏に転用されていたのである。