伊奈氏の家計

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農民に貸付けられた幕府貸附金の又借り転用は、前にみた米倉家に限らなかったようである。明和四年(一七六七)七左衛門村の門平が、関東郡代所貸附金五〇両を借用したが、このうち金二〇両を関東郡代伊奈氏の家臣豊嶋庄七が又借りしている。利金は門平の借金利率と同率の年一割二分である。この金子は伊奈家が転用したものかどうかつまびらかでないが、証文によると返済の期日に「もし滞り候はば、証人方より返済申すべく候」とあって、この証人は伊奈氏の家老田口勘兵衛の署名であるので、おそらく伊奈氏への転用であったろう。

 このほか伊奈氏の家臣が関東郡代貸附金等を借用している例が数多くみられる。たとえば大川戸村杉浦家文書によると、伊奈氏の家臣武州葛飾郡大川戸村杉浦氏は、二町二反二畝一四歩の田畑屋敷地を引当てに、宝暦七年(一七五七)二月、安永八年(一七七九)二月、天明四年(一七八四)二月に、東海道品川通り御普請貸附金や、関東郡代所貸附金から、それぞれ年一割の利金でこれを借りている。これらはいずれも伊奈氏への融通金であったとみられ、寛政四年(一七九二)、主家の伊奈右近将監失脚の際杉浦氏の田畑屋敷は没収にあっている。すなわち右近将監失脚のとき杉浦氏が大川戸村杉浦家屋敷の由緒を申立て、従来通り大川戸村屋敷を所持できるよう幕府に願い上げたところ、「右屋敷は養父五太夫拝借金引当てに書入れ置き、敢て上納滞り候にはこれなく候へ共(中略)強て申立て候節は、右近将監父子の為にもよろしからず」とさとされ、この地は御払い入札に処せられている。

 このほか伊奈氏の家臣越ヶ谷領神明下村会田七左衛門も同様な理由から、二三町五反三畝一四歩の田畑屋敷地が御払い入札に処せられている。したがって財政窮乏に悩む伊奈氏は、広く家臣からの融通金を集め、伊奈氏勝手向のやりくりをしていたのではないかと考えられる。

 また主家伊奈氏でも安永三年(一七七四)「私勝手向の義前々より不如意にて他借相嵩み、必至と差支え、養父半左衛門御役も相続仕りかね候仕義に罷り成り候につき」とあって、幕府から金一万五〇〇〇両の金子を一五ヵ年季で拝借している。伊奈家ではこの拝借金を運転資金に諸家へ貸付け、その利金で財政建直しをはかってきたが、貸付金のこげつきその他で資金操りが苦しく、寛政元年(一七八九)の返済期限にこれを納入できなかった。このため伊奈家ではこの年さらに拝借金の返済期限二〇ヵ年延期を願ったが、幕府はこれを許さず、三ヵ年賦の償還を申渡した。伊奈右近将監の幕府に対するその後のあからさまな抵抗は、この拝借金返納延期願いに際しての幕府の強硬な措置への反撥に一つの理由があったのである。