前述によって諸大名や関東郡代伊奈家の家計のやりくりの一端をみてきたが、諸旗本の台所の困窮ぶりもこれまた同様であった。たとえば西方村須賀家文書によると、西方村に一部知行地をもつ万年佐左衛門は、早くも享保十三年(一七二八)西方村知行所に対し金三四両と銀一二匁の金子借用を申入れている。返済は次年度の年貢米を引当てにそのときの相場で勘定するとある。金利は一ヵ月金一五両につき金一分の利率とあるので、年二割の高利である。
また七左衛門村井出家文書によると、天保二年(一八三一)、神明下村と七左衛門村に一部知行地をもつ旗本中条鉄太郎は、すでに七月には屋敷賄いの飯米を遣いきり、このため飯米の前借納入を両村の知行所に割当てている。両村知行所では、まだ新米の収穫がないのでこれを納入することはできない。したがってこの前借米を江戸飯田町三河屋平四郎方から融通をうけるので、地頭中条家の下知書を添えるよう願っている。端境期にあって飯米にも差支えていた旗本の苦しい台所がしのばれる。このほか両村の文書中には、田方先納金、雑用金割合上納金、御賄割合上納金などの請取書が数多くみられるので、中条家ではいろいろな名目で年貢米の前借をしていた模様である。