江戸時代の初期にはしばしば検地が施行され、そのたびに開発地が村高に組込まれたが、それぞれある時期にこの村高が固定された。このときの検地帳が江戸時代を通じ基礎的な土地台帳として用いられた。当地域村々のこの固定される検地時期は一様ではない。
『新編武蔵風土記稿』によると、岩槻藩領恩間村と大竹村は寛永七年(一六三〇)、同藩領大道村と三野宮村は万治元年(一六五八)、忍藩領その他の私領であった見田方・千疋・別府・四条・南百・西方・東方・麦塚・伊原の各村が寛永四年、はじめ土井領であった砂原・小曾川・野島・後谷の各村が寛文七年(一六六七)である。これらの村を除き他はすべて元禄八年(一六九五)幕領総検地によって村高が固定された。
その後流作場や沼地、あるいは原野などの開発地が調査され、これが村高に組入れられていくが、村高固定後のこの開発地の検地を新田検地という。当地域の新田検地は第17表のごとくである。
このうち恩間村の慶安二年(一六四九)の新田検地は、おそらく恩間新田の開発による検地であろう。恩間村渡辺家の墓碑銘によると、慶安年中恩間村名主渡辺氏が新田開発を進め、岩槻領主から免田一町歩を拝領したとある。なお正保年間(一六四四~四八)成立の村高調書「武蔵田園簿」によると、当時高二三九石余の恩間村が、約五〇年後の元禄郷帳では、その村高が四一八石余に上昇しており、この上昇分が慶安二年の新田検地で打出されたものとみられ、村高固定後の新田としては当地域でもっとも大規模なものといえよう。
また、砂原・後谷・荻島各村の延宝元年(一六七三)の新田検地は、当時これらの村が土屋領であったので、領主土屋氏による検地であったとみられる。
享保十六年(一七三一)から延享・寛延年間(一七四四~五一)にいたる検地は、享保改革の一環として推進された新田開発の総点検ともいうべき検地である。ことに寛延三年(一七五〇)の新田検地は、年貢増徴に意欲を燃した勘定奉行神尾若狭守によるものであり、その検地は一歩の地もみのがさないほど徹底したきびしいものであったといわれる。ついで宝暦・明和・安永・天保としばしば検地が実施されたが、当地域ではすでに新規の開発地域は限度であったとみられ、いずれも大きな開発地の高入れはみられない。
このうち宝暦十一年(一七六一)の越ヶ谷町新田検地は、越ヶ谷町会田出羽の子孫会田平兵衛が、宝暦九年、勘定奉行一色周防守に願いあげ、越ヶ谷町東町裏耕地畑一町一六歩を新開したものであるといわれる。