古川の新田検地

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当地域の河川改修で古川となった場所は、寛永六年(一六二九)と推定される元荒川改修による花田村をめぐる古川と、宝永三年(一七〇六)の同じく元荒川改修による袋山村をめぐる古川である。改修によって生じた古川敷は、古川を取巻く村の村預りとされ、新田の開発を督促されたが、両古川とも瓦曾根溜井堰止による水位の上昇のため、古川敷の水吐けが悪くその開発は除々にしかも長い年月を要したようである。

 このうち花田古川は、「大沢町古馬筥」によると、享保十六年、寛延三年、安永三年、天保五年と古川新田の検地がしばしば行なわれたが、天保五年の新田検地には下々田・葭畑・砂田・見付田の等級付による耕地三町四反四畝二一歩、この高一〇石余が高入れになったという。この間花田村は元禄期の村高二四五石から二九〇石余に増大している。

恩間新田旧村道
会田平兵衛寄進の神橋<br>文政10年会田平兵衛が越ケ谷久伊豆社へ寄進の石橋のうち橋頭の一部,現在越ケ谷天嶽寺蔵

 また袋山村古川敷は、総反別一四町三反五畝であったが、新川敷の代替地として荻島村へ五町歩が割当てられ、残り九町三反五畝歩が古川沿いの村々にそれぞれ割当てられた。このうちほとんどの地が袋山村の預り場とされたが、このほか大竹・恩間・上間久里・下間久里・大里の各村にも少しづつ割当てられ、見取場として年貢地に指定された。しかしこの古川敷は、瓦曾根溜井による湛水の逆流と、上郷岩槻領村々の悪水落しこみによって沼沢地同様であり、稲の植付が不可能であると称し、村々では例年のように作毛皆無の届けを代官役所にだしていた。だが当所も寛延三年と天保五年の古川新田検地によって古川敷の作毛が確認され、これが村高に組こまれて年貢地にされた。この間の新田検地を袋山村の年貢勘定帳ならびに上間久里村と下間久里村の現存している検地帳によってみると、つぎのごとくである。