寛延三年、勘定奉行神尾若狭守と曲渕豊後守によって袋山村の新田検地が実施された。このとき年貢地として村高に入れられた袋山村古川敷の耕地は反別三町八反三畝二七歩、この高一九石七斗二升四合である。このうち下々田が五反九畝二一歩、見付田が一町二反四畝二一歩、砂田が八反二畝一二歩、下々畑二反六畝三歩、見付畑四反二七歩、葭畑五反三歩という内訳となっている。このほか四町六反四畝六歩の地が沼地として高の外に除かれたが、この沼地にも永二三二文一分の年貢が課せられるというきびしいものであった。
ついで天保五年、伊奈半左衛門の奉行によって再度古川敷の新田検地が行なわれ、沼地として除かれていた四町七反五畝三分、この高二三石七斗五升五合が袋山村の村高に組入られた。このとき袋山村が割当てられていた預り地のほとんどが正式に耕地として登録されたとみられ、村高二三七石二斗三升二合、この反別六八町三反六畝一四歩であった袋山村が、両度の検地によって高二八〇石七斗二升七合、この反別七六町九反五畝一四歩の村になった。実に高で四三石、反別で八町五反余が新田検地によって打出された新耕地であり、近世後期の越谷地域では、同じく古川敷の開発によって高二四五石余から高二九〇石余の村高に増加した花田村とともに新田検地高のもっとも大きいものであった。