上・下間久里村の新田検地

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つぎに上間久里村をみると、上間久里村では享保十八年(一七三三)に新田検地が行なわれている。このときは勘定奉行筧播磨守のもとで関東郡代伊奈半左衛門が検地を実施している。検地の箇所は〝つき堤耕地〟のうち、長さ一五間、横二間の屋敷地一畝歩の場所であり、この高はわずか一斗である。一歩の地所も余すところなく検地を行ないこれを村高に入れて年貢を少しでも多く取立てようとした幕府のきびしい姿勢がうかがえられよう。

新田検地帳の表紙(右)と奥書(左)

 ついで寛延三年の新田検地は、袋山村と同じく勘定奉行神尾若狭守と曲渕豊後守のもとで、勘定方塩谷八太夫と岩松直右衛門らによって実施された。検地の場所は、大林村入組飛地鯛嶋(たいのしま)の一部を除き、すべてが堤外の地で、古川敷の開発田畑である。袋山村廻り元荒川の河川改修は宝永三年であったので、それから四四年後にようやく古川敷の一部が検地され、正規に村高へ組入れられることになったのである。このときの検地の結果は、石盛六斗の見付田、石盛五斗の下々畑、石盛二斗の葭畑、石盛八斗の屋敷地と、四つの等級に分けられた。この反別石高は見付田が四反八畝六歩でこの高二石八斗九升二合、下々畑が七畝九歩でこの高三斗六升六合、葭畑が二反八畝九歩でこの高五斗六升六合、屋敷地が四畝六歩でこの高三斗三升六合、合計反別八反八畝歩、この高四石一斗五升九合であった。これらの地を名請した者は源左衛門以下一七名である。

 続いて天保五年の新田検地は、代官伊奈半左衛門によって実施され、下々畑三反六畝九歩、葭畑二反一畝二四歩、屋敷一反九畝一八歩、反別合計七反七畝二一歩、高合計四石二斗一升一合の地が新たに村高へ組入れられた。名請人は次右衛門以下二三名であり、なかには一〇歩二〇歩という零細な土地を名請していたものもあった。

 つぎに下間久里村をみると、下間久里村の寛延三年に実施された新田検地の施行者は上間久里村と同じであり、検地の場所は外川と堤外、つまり古川敷である。このときの検地の結果は見付田が五反一畝六歩、この石盛は六斗で高八斗七升五合、下々畑が一反一畝二三歩、この石盛は五斗で高五斗八升五合、見付畑が四畝六歩、この石盛は四斗で高一斗六升八合、葭畑か四反九畝一八歩、この石盛は二斗で高九斗九升二合、反別合計一町三反四畝六歩、高合計五石六斗九升二合であった。この地の名請者は佐右衛門以下二一名である。このほか外川の沼一町七反五畝歩、同じく外川の地長さ五間、横五間のところが死馬捨場として除地にされた。

 ついで天保五年の新田検地は、外川・堤外そのほかの開発地で、砂田一町三反六畝歩、この石盛は二斗で高七斗八升、高合計七石五斗八升、反別合計一町七反五畝歩が村高に新たに加えられた。

 このほか越谷地域における新田検地は、第17表にみられるごとく、いずれも享保・寛延・宝暦・明和・天保の年間に集中して行なわれていたことが知れる。