西方村の年貢高

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享保九年(一七二四)の定免制施行により二九七石余の定免高で出発した西方村の田方年貢量は、定免年季切替ごとに増徴され、元文三年(一七三八)には三八八石の田方年貢高が課せられた。寛保三年(一七四三)関東郡代伊奈氏が当地域の幕領支配から離れ、代官の分割支配に移されるや、西方村は五ヵ年にわたる見取検見が実施され、その年貢高は急激な上昇をみせた。容赦ない見取検見の厳しさに不安を感じた西方村は、寛延元年(一七四八)米五一五石の定免年貢高を請けたが、以来文化十四年(一八一七)までの七〇ヵ年近くにわたる年貢高の固定期を迎えた。

 この間明和三年(一七六六)、天明三年(一七八三)、同五年、同六年、寛政三年(一七九一)、文化五年(一八〇八)の水害による破免を除いては、五一五石余の田方年貢が一貫して持続された。この年貢高は田高に対し四六%弱、反取四斗四升弱にあたり、江戸時代初期の西方村年貢率とほぼ同率に復したことになる。ただしこの年貢高の賦課率は、固定された田高ならびに反別に対するもので、実際の収穫量に対する賦課率ではない。

 全国的にみれば、すでに元禄期以降の農業生産は、農業集約化の促進、肥培管理の普及、農具の改良などにより、いちじるしい生産力の上昇を示しており、自給的な生産構造にあった農村は質的にも変化をみせていたという。先進地後進地の差を勘案しても、幕初当時と元禄期以降の農業生産力を同一視することはできない。したがって固定した田高に対する年貢量の比率が、かならずしもそのまま農民収奪の度合をはかる尺度であるとはいえない。

 享保改革の時点では、すでに西方村においても農業生産力が上昇し、検地によって示された上・中・下の位付けと、その実際の地力とに大きな差をみせていたと考えられる。幕府はこうした事態に対し、前述のごとく(第四編第三章第一節参照)有毛検見法という新たな課税制度を採用し、上・中・下の耕地位付けに関係なくその実収量を査定しようとしたのである。この方法がどこまで有効に実収量を把握できたか疑問であるが、この実収量に対し幕府は五公五民、つまり全収穫量の半分を年貢に取立てることを目途にしたという。

 ただし幕府の有毛検見法実施後も、年貢割付状の形式は変らず、上・中・下の位付けのもとにそれぞれ反取幾らと記されているが、前述のとおり実際は上・中・下ごとの坪刈りは行なわず、適当な場所を選んで坪刈りし、これを全耕地の基準収穫量にした。したがって村々では農民個々の年貢割当ても、たとえば西方村「旧記五」にあるように「小作入附、根耕地、野末の差別なく、米五斗一升づつの定めにて候、しかる上は御取箇も上・中・下田の差別なく、反別平均高下なく割合上納仕り候」とて、耕地面積に応じて平均に割当てていた。

 こうした幕府の定免法・有毛検見法実施による一連の年貢増徴策により、幕府直轄領の総年貢納入量は飛躍的に増大し、享保期一四〇万石前後の年貢量は、延享元年(一七四四)に最高一八〇万石台を示すにいたった。反面こうした高度な年貢収奪は農民の単純再生産をも不可能にし、とくに関東・東北の後進地農村は破滅的な影響をうけ、はげしい飢饉現象を生じさせた。その後、高度な年貢収奪の努力も幾多の曲折を経るが、ついに農民の抵抗その他により年貢収奪の強化策は挫折し、運上金・御用金・貨幣悪鋳などの年貢外収入にたよる幕府財政の変質を招いたという。

 こうした幕府の財政動向にあって西方村の田方年貢高は、寛延元年に五一五石の定免高になって以来、ほぼ七〇年間にわたりきわめて安定した年貢高が持続された。また西方村の畑方年貢も永四五貫文と、同じく安定した年貢高が持続される。

 西方村の畑方は、高二二八石余で西方村高一三六二石余のうちの一七%にあたる。この畑方年貢は寛永年間から延宝年間(一六七三~八一)まではおよそ永二五貫文から永二六貫文の年貢高を示し、天和年間から正徳年間(一六八一~一七一六)までは永三二貫文から永四〇貫文への上昇をみせる。例外として享保元年(一七一六)に永五〇貫文の畑方年貢が課せられたが、その後四〇貫文を上下し、享保九年に永四一貫文の定免高になる。この定免高は享保十二年の定免切替えに永四四貫文となり、延享二年(一七四五)から永四五貫文で固定する。なお西方村畑方年貢は天保年間(一八三〇~四四)になると、永七〇貫文前後の上昇をみせ、江戸時代初期のほぼ三倍近くの増徴を示す。だがこれは貨幣価値の下落その他で、かならずしも賦課率の高さを示すものでなく、西方村の年貢高はもっぱら田方年貢に関心が向けられていたようである。

西方の畑地

 いずれにせよ七〇年近くにわたる寛延元年からの畑方年貢永四五貫文、田方年貢五一五石の年貢高が持続されている間、西方村でも貨幣経済が急速に進行し、宝暦年間(一七五一~六四)から居酒屋・髪結・水茶屋・湯屋・油絞り・醤油造り・〆粕屋・菓子屋・雑貨屋などの農間商人が発生した。文政八年(一八二五)の農間余業調査では、西方村総戸数一四〇軒のうち、大工・屋根葺・左官などの諸職人を含め、実に全戸数の三八%にあたる五四軒が、農間になんらかの稼業をいとなんでいた。

 このような現象は西方村のみの特徴でなく、当地域の一般的な様相であったが、こうした農村構造の変質過程が、西方村の場合七〇年にわたる安定した年貢高の持続といかなるかかわりあいがあるか今のところ速断はできない。しかし少なくとも西方村は享保改革に示された年貢収奪の結果、破滅的な影響を蒙った自給的農村とは質的に異なった生産力水準にあり、この生産力が年貢収奪の横ばいの間、商品作物を盛んにし、貨幣経済を促進させたものとみられる。

 この西方村の商品作物を、たとえば西方村「旧記参」によってみると、天明六年(一七八六)、関東大洪水により、稲作に潰滅的な打撃を蒙った際、西方村では「くわい作は多分これあり候処、水干潟に相成り候後、肥手料等仕り候得ば存外宜敷出来候故、暮春に相成り一荷にて五貫六貫位に売り申し候故、其節は銭相場に直し候得ば一荷一両にも相当り候間、大きに足合に相成り候」とあるように、商品作物の展開が水害による飢饉を回避させていたことが知れる。