代官吉岡次郎右衛門

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西方村の固定された年貢高の持続は、文化八年(一八一一)、代官山田茂左衛門にかわった吉岡次郎右衛門により、文政元年(一八一八)に強行突破された。この間の代官吉岡次郎右衛門による年貢増徴の経過を、西方村「旧記五」によってみるとつぎのごとくである。

 なお吉岡次郎右衛門の支配地は文化十三年の『武鑑』によると、当時武蔵・上野・常陸・下総のなかに支配地をもっており、当地域では西方村のほか中島・増林・増森・大吉・大杉・船渡・大泊の各村が支配所であった。吉岡次郎右衛門は、『寛政重修諸家譜』によると諱を義休といい、はじめ虎次郎を称した。その三代前の祖先が延宝元年(一六七三)にはじめて御徒目付に登用され、元禄十三年(一七〇〇)に支配勘定に移り蔵米一〇〇俵を与えられたとある。そして次郎右衛門の代も、禄高は蔵米一〇〇俵の小身の旗本である。天明四年(一七八四)遺跡を継ぎ御勘定勤務、ついで寛政九年(一七九七)評定所留役に移り、おそらく文化八年に代官に転じたものであろう。

 当時西方村は文化五年に十ヵ年季の定免請をしており、定免年季明けは文化元年にあたる。この間代官吉岡は、野畑や柳畑の年貢を増したり、畑田成の隠田を申告させて米納に切替えるなどの年貢増徴をはかった。そして文政元年の定免切替えにあたっては、西方村の当時の定免高五一七石余から一挙に一二〇石の増米による定免を要求した。後述のごとく代官吉岡は、一反あたりの年貢量を、五斗五升に引上げることを目途にしていたのである。

 西方村農民は、この増米要求に対し、しばしば寄合を開いて協議を重ねた結果、一二〇石の増米による定免請を拒否し検見取りを願うことにした。検見取を願いでた村々は西方村に限らず他村も同様であったとみられ、代官吉岡による検見の実施は、二郷半領・松伏領の支配村々から新方領の村々に及び、九月十日増林村を済ませて西方村に移った。

 西方村では西方村の耕地二ヵ所各一坪宛の刈だめしが行なわれ、その場で舂(つき)法(稲を玄米につく)が試みられた。このとき西方村役人は、私領・寺領の耕地は相当な作柄であるが、御料分の耕地に限りめだって粗作なのはいかなる事情によるのかと、代官吉岡より厳しく咎められた。

検見坪刈の図(徳川幕府県治要路)

 この吉岡によって指摘された御料と私領の耕地における作毛の差異は、西方村のみでなかったとみられ、検見のあと、西方村をはじめ中島・増林・大杉の各村役人が江戸の吉岡役所に召喚され取調べられた。これに対し村々役人は恐縮し、「私共村々は一村のなかに私領や寺社領そのほか隣村の田畑が入交っています。今回検見の実施にあたり、これらをことごとく見分されましたが、吉岡支配所の耕地だけが格別粗作であったので、その理由をただされたが申訳もない次第です。この上吟味されてはどのようなお咎めをうけるかも知れず恐れ入るほかありません。どうか御勘弁願います。年貢については当年いかなる年貢高を課せられても、申し上げようもありません。」と平あやまりをしているので、あるいは村々申し合せのうえ、意識的に耕作を怠ったともとれないことはない。

 こうして当年の西方村の年貢は五六四石余の課徴であり、定免時の年貢高より五二石の増徴となった。ここに膠着していた西方村の年貢高がはじめて代官吉岡によって大きく破られたのである。

 翌文政二年、西方村は今回も一二〇石増米による定免要求を拒み、農民議定を結んで検見取りを願いでた。この年五月、幕府の老中水野出羽守からの通達で、全国の諸代官が勘定奉行村垣淡路守に呼出され、年貢増徴に関し申渡しがあった。このとき吉岡次郎右衛門役所は成積優良によるとの理由でこの申渡しから除外された。したがって吉岡支配所村々の年貢増徴はない旨の通告があった。

 ところが事実は逆で西方村では有史以来の高免が課せられたのである。このときの検見も代官吉岡は村役人の案内にしたがわず、彼の見立てによった耕地二ヵ所一坪宛の刈だめしを行なった。西方村役人は強く不作耕地の見分を願ったが、代官吉岡はその必要はないとこれを断わり、直ちに旅宿で舂法が試みられた。村人の思惑は大きくはずされたわけである。当年は天候もよく例年にない豊作であったこともあり、西方村の年貢は六二〇石という前例のない高免が課せられた。この年貢高は定免時の約二〇%増にあたり、田高に対し五五%強、反取五斗二升にあたる。代官吉岡の意図した反取五斗五升に大きく近ずいたことを示している。

 翌文政三年、西方村では、去年の検見で代官吉岡の刈だめしの様子をみては、いかなる方法も通用しないが、今回も運を天に任せ村の浮きしずみをうらなうためとて、当年も検見取りを願うことになった。もっとも吉岡支配所村々のなかには、大杉・大吉両村のように、すでに検見取りの高免を恐れ定免請をした村もあった。

 ちなみに大吉村染谷家文書によると、大吉村は村高三八二石、これまでの定免年貢高は田方が一六一石余、畑方が永一九貫文余であった。これに対し吉岡による新規定免高は、畑方年貢が据置かれたものの、田方年貢は一挙に四〇石増の二〇一石余の課徴になった。この年貢高は今までの年貢量の二五%増であり、反取五斗五升にあたる。西方村でも検見願いに吉岡役所へ出向いた際、吉岡から反取五斗五升、つまり六二三石の年貢高で定免請をするように厳しい説得をうけた。しかし西方村役人は、一たび高免の定免請をすると、たとえ代官交代があったとき改めて低い年貢を願っても許されないだろうとひらき直り定免請を拒んだ。

 この年は霖雨が続き麦が凶作であったうえ夏には大風が襲来して稲も不作であった。代官吉岡は九月四日、増林・中島両村の検見をすませ西方村に移った。代官吉岡はこのときは村役人の案内にしたがい、村役人の選んだ耕地二ヵ所の刈だめしを行なった。このとき吉岡は、村の書上げによる収穫見積書ともいうべき〝内見帳〟に、水腐れや付荒の反別書上げが多いが、間違いではないかと尋ねた。村役人はまってましたとばかり耕地の状況説明を行ない、水腐耕地の見分方を願った。

 吉岡はこれを聞入れ、水腐耕地の刈だめしを行ない、このあとただちに新しく吉岡支配所に組入れられた新方領三ヵ村の新田見分に向った。西方村では雨にぬかった道を新方領に向う代官一行の難儀を考慮し、多勢の人足を提供して一行を送った。この人足達には代官から金一〇〇疋の骨折謝礼がだされたという。こうして不作による減免を期待した西方村であったが、当年の年貢高も五三二石の高免であった。

 西方村の農民は、この代官吉岡をどのように評価していたであろうか。明治初年の成立と思われる同村世襲名主の一人、秋山氏の「秋山家由緒之記」(越谷市史(三)九七六頁)によると「此時検見役トシテ無慈不仁ノ代官吉岡次郎右衛門ト云者来リ、当所ノ地味ヲモ知ラスシテ上方筋同様ニ心得タルニヤ、同人云ク当地ノ取箇甚タ不足ナリトテ、当年ノ検見ヲ去ル午年ニ平均スルノ旨、以ノ外ノ不都合ナレハ村吏其ノ意ニ一和セス、仍テ彼ヲ見ル事敵ノ如シ、然ルニ邦(人名)最病身ナカラモ昼夜此事ニ肺肝ラ砕テ猶病メルカ如シ、又耕地作毛見分ノ節ニ及ンテハ大雨頻リニ降リ出セシ故雨笠ノ許シヲ請ヒ共、之ヲ許サス、雨水ハ衣ヲ貫キ徹リ肌ヲ洒ケリ、斯ル難渋之案内ナレハ、老母ハ其躰ヲ見ルヨリ共ニ胸中ヲ冷シ心ノ恨ミ面ニ顕ハレ、噫亡道ナル哉如何ニ権柄ノ役儀ナレハトテ此大雨ニ笠ヲモ許サス、言語同断不徳ノ至リ君子ノ成ス可キ所ニ非ラス、若シ我等カ当主此難渋ニ病重ナリ相果ナハ、此恨ミコソ報ハテ置ク可キヤト或ハ怒リ或ハ嘆キ」と記されている。代官吉岡を攻撃したこのはげしい文面にうかがえるように、西方村農民は吉岡を苛酷無情な役人とみていたことは事実であろう。

西方大徳寺秋山氏奉納宝篋印塔

 また、茨城県稲敷郡河内村生板の三義人顕影会刊『生板の三義人』によると、当時吉岡の支配であった常州河内郡生板村の農民が文化十四年、年貢の減免を願い吉岡役所に門訴を決行している。吉岡はこの年貢減免願いに応じなかったが、生板村の農民惣代三名は、なおも減免を求めこれを奉行所に越訴した。このため三名とも捕えられて吟味をうけ、いずれも獄死した。文政六年、生板村をはじめ元吉岡支配所の常州十二ヵ村は、十二ヵ村農民のため獄死した三名の霊をとむらい、生板の三義人とたたえて供養塔を建碑した。

 一説によると代官吉岡はこの事件の責任を問われ、文政四年に代官を罷免されたともいわれる。いずれにせよ文政四年五月、文化八年から十ヵ年間にわたり、西方村をはじめ当地域数ヵ村の支配を続けてきた吉岡はこの地から去り、同年六月、吉岡の支配所村々は大原四郎右衛門、川崎平右衛門の立会預り支配所となった。