文政四年、大原四郎右衛門・川崎平右衛門の立会預りとなった西方村をはじめその他の村は、当年も検見取りを願うことになった。検見は九月二十一日から行なわれ、各検見村々の刈りだめしが行なわれた後、西新井村の名主宅で一括して舂法が試みられた。
このとき舂法にたずさわった人足の一人が、吉岡代官の交代に気を許したものか、舂法での不調法があった。これが検見役人の見咎めるところとなり、舂法はその場で中止された。舂法に立会っていた村々役人はこの思わぬ失態に恐縮し、「西方村治郎右衛門召仕利八儀、御舂法のみぎり御目障りこれあり、御咎を蒙り恐れ入り奉り候、右の者儀持病の薬用として、少々酒相用い候処、右に全く酔給候哉」とて、御慈悲願いの詫書をだして謝罪した。この連印始末書には西方村をはじめ検見村一〇ヵ村の名主が署名しており、翌日代官一行が出立の直前にようやく許されている。
当年の西方村は、干魃による被害もあり、年貢高は四三六石ですんだ。西方村はその後態度を変えて逆に定免を願いでたが代官所では、理由は不明だがこれを許さず、なおも検見取りが続けられた。この間の西方村年貢高は文政五年度が五五一石、同六年度が四五一石、同七年度が四八三石である。
文政八年、代官柑本兵五郎にかわって山田茂左衛門が支配のとき、文化十四年の定免高五一七石に一八石の増米による五三五石余で二ヵ年季の定免請が許された。ついで同十年の継年季にも同高の定免高であり、この後畑方年貢を除き田方年貢は幕末まで大きな変動はなかった。