砂原村の年貢高

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砂原村の村高は六七八石余である。このうち田高は全耕地の約七〇%にあたる四七一石余であり、畑高は約三〇%にあたる二〇七石余で田の多い村である。支配関係は、江戸時代の初期は幕府領に属し伊奈半十郎の支配にあったが、寛文二年(一六六二)に土屋但馬守領分に編入され、ついで天和二年(一六八二)に堀田豊前守領地になった。続いて元禄十一年(一六九八)六浦藩米倉領に組入れられ、以来幕末まで米倉領であった。

 この間の砂原村年貢高の推移を、砂原村松沢家文書の現存する年貢割付状によってみるとつぎのごとくである。幕府領であった時の現存最古の年貢割付状は、寛永十二年(一六三五)である。このときの田方年貢は、田高に対し五〇%、つまり五公五民にあたる二三九石余、畑方年貢は永二二貫文である。その後幕府領時代の年貢割付状は、寛永十七年から明暦三年(一六五七)までのものが一〇通ある。これによるとその年により増減があるが、田方年貢は二二〇石から二三〇石の間を上下する。畑方年貢は承応三年(一六五四)の永二五貫文を除くといずれも永二一貫文である。この年貢高はほぼ西方村の年貢率と同じ率である。

砂原村の年貢高推移

 ついで土屋領分であった寛文二年から天和元年までの間の年貢割付状は、延宝元年(一六七三)と同八年の二通である。このうち延宝元年度の年貢高は、田方年貢が二七一石、畑方年貢が永二三貫文であり、田方は田高に対し五七%とかなりの高免である。また同八年度の年貢高は、田方が二三七石、畑方が永二二貫文と多少の減免をみせているが、当年は平年作を下廻った年であったかも知れない。

 ついで天和二年から元禄十年までの堀田領時代の現存年貢割付状は一〇通であるが、不作年とみられる低年貢を際いては、田方年貢は二六〇石台から二七〇石台を上下しているので、土屋領時代の高免年貢高を踏襲していたようである。ただし畑方年貢は永三〇貫文あるいは永三〇貫文近くの課徴で、西方村の畑方年貢にくらべ、いちじるしく高率である。

 享保十一年から替った米倉領時代は、幕末までの間に一一通の年貢割付状が現存している。このうち元文二年(一七三七)の年貢高は、田方年貢が二六四石、畑方年貢が永三〇貫文、延享元年(一七四四)が田方年貢二七三石、畑方年貢永三〇貫文である。この頃は幕府領では、享保改革のはげしい年貢収奪が成果をあげた頃であるが、六浦藩では土屋領時代からの一貫した年貢高が維持され、変化をみせてない。

 しかも明和八年(一七七一)、安永四年(一七七五)、同七年の年貢高は、固定した畑方年貢永三〇貫文が持続されたが、田方年貢は五ヵ年季の定免請で二二一石と二二三石であり逆に下降を辿っている。さらに寛政四年(一七九二)の田方年貢は同じく五ヵ年季の定免請で二〇一石、同九年が二〇六石、享和二年(一八〇二)と文化四年(一八〇七)が二〇七石、同九年が二〇八石で、いずれも二〇〇石台の低年貢に落込んでいる。この年貢の低落現象は砂原村の特異性にあるものか今のところつまびらかでないが、領主財政の窮乏はこの年貢収入の低滞にも一因があったのは事実であったろう。

砂原久伊豆社